「姉御、姉御っ」

「何だね、葉留佳君」

 放課後、野球の練習の帰り道。いつものように葉留佳君は私の隣に駆け寄ってきて、他愛もない話に花を咲かせる。話題は専らリトルバスターズの周辺について。例えば、理樹君を女装させたときに最も似合う服はどんなものか。例えば、恭介氏の(21)疑惑は真実か否か。例えば、筋肉馬鹿は死ねば治るか、あるいは死んでも治らないか。

 話題を振るのはほとんど葉留佳君で、話す量も葉留佳君の方が圧倒的に多い。私はどちらかというと聞き手に回っているが、それは決して話が退屈だというわけではない。むしろ、私は毎日のこの時間を楽しみにしていた。

 ……しかし。

「……ありゃ?」

「む、どうした?」

 歩きながら話していた葉留佳君が突然、足も口も止める。さらに目も止め、離れたある一箇所を見つめている。視線を追うと、クリムゾンレッドの腕章を付けた生徒の一団。そしてその先頭に立つ佳奈多君。風紀委員だ。

 葉留佳君がにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべたのが分かった。

「姉御、私はちょっとヤボヨーが出来たんで、先に帰っててくださいっス!」

 言うが早いか、風紀委員達の方へ走って行く。また何か悪戯をしかけるつもりなのだろう。

 野球の帰り道、葉留佳君と取りとめのない話をする時間を私は楽しんでいる。しかし最近、その時間がすっかり減ってしまっている。原因ははっきりしていた。我々の練習が終わるのと同じ時間帯に校内を見回る風紀委員……と言うより、そのトップ、佳奈多君だ。

 修学旅行の後、紆余曲折を経て和解した葉留佳君と佳奈多君。それ以来、葉留佳君の行動パターンは随分と変わった。

 まず、私達のいるE組に顔を出すことが減った。それでもやはり他クラスの人間にしてはこちらの教室にいる頻度が高く、疎遠になるようなことはなかったが、それでもどこか私達の教室が静かに、そして物足りなくなったのは確かだ。

 また、悪戯の仕方が変わった。以前の葉留佳君は時も場所も選ばず悪戯を繰り返していたが、今の葉留佳君はリトルバスターズ内、あるいは風紀委員の近く以外ではあまり悪戯をしなくなった。結果として、風紀委員の周辺こそが騒ぎの発生場所有力候補となっている。また、悪戯の内容も相手をからかうようなものに偏ってきた。

 そして何より、佳奈多君に甘えようとするようになった。以前はあんなにも憎んでいた相手だというのに、だ。もっとも、今にして考えてみれば、あの憎しみも甘えたい気持ちの裏返しだったのかも知れないが。とにかく、これが一番の葉留佳君の変化だ。と言うより、先の二つはこれによる副次的なものとさえ言えるだろう。こちらの教室にあまり来なくなったのは、自分のクラスで佳奈多君と一緒にいたいが為。風紀委員相手にからかうような悪戯を繰り返すのは、そうやって佳奈多君に構ってもらいたいが為だろう。

 一般的な考えで言えば、二人が和解できたことは喜ばしいことなのだろう。二人の友人として、祝ってやるべきなのだろう。だが私は、素直にそうすることができずにいた。

 葉留佳君は私を、まるで本物の姉に対するように慕ってきてくれた。その葉留佳君が今はそばにいないことが寂しかった。今、葉留佳君のそばにいるであろう佳奈多君に嫉妬した。

 葉留佳君。私をこんな風にしたそもそもの原因は、キミなのだぞ……。

 

 

 

 葉留佳君と初めて出会ったのは、一年の五月のことだった。飲み物を買おうと自販機の前に立ったとき、隣の自販機に向かっていた少女が財布から十円玉を一枚落とした。側溝に落ちたそれを見て、彼女はがびーんとかあひょーとか奇声を上げて大げさに嘆いた。たかが十円玉一枚ごときにそこまでこだわる理由が分からなかった。理由は分からなかったが、酷く興味を覚えた。もしここで側溝から十円玉を拾ってやれば、またえらく大げさに喜ぶのだろうか。

『おい』

『へ、私?』

『そうだ。硬貨を拾ってやる、少し離れていろ』

『う、うん……』

 そうして拾ってやれば、予想通り、いや、予想以上に大げさに少女は喜んだ。瞳を輝かせ、手を叩き、しきりにすごいすごいと口にした。少女の反応に、むず痒いような、しかし不快ではない奇妙な何かを感じたことは、今でも覚えている。

 その、たかが十円ごときにやたらと大げさに嘆き、喜ぶ奇妙な少女こそ、葉留佳君だった。

 それ以降、葉留佳君は休み時間のたびに他のクラスから私を訪ねてくるようになった。私に取り入ろうとする女子はこれまでにもいくらかいた。それらと同類なのではと最初は葉留佳君を疑いもしたが、疑念はすぐに晴れた。他の連中とは違い、葉留佳君からは私を利用しようとする魂胆のようなものが感じ取れなかった。

 ただ、私が手慰みに習得した特技を見せてやれば目を丸くして喜び、私がからかってやると凹んでみせる。そんな彼女の姿に、私は何か尊いものを感じていた。

 

 当時の私が自覚することはなかったが、今なら分かる。曰く、“感情の無い、ロボットのような女”である私の目には、どこまでも感情豊かな葉留佳君が眩しく映ったのだ。不謹慎だとは分かっていたが、やがて知った葉留佳君が佳奈多君に向ける深い憎しみでさえ、私にとっては羨ましいものだった。

 そして、今にして思えばそれこそが、私が生まれて初めて持った感情だったのだろう。

 今の私には、人並みとは言わずとも、それなりに感情が備わっているという自負がある。それはきっとあの繰り返す世界での日々、リトルバスターズのメンバー達……特に、理樹君のお陰だ。あの世界が私の感情を育んだ土壌であり、理樹君の存在が太陽であったとするなら……最初に私の感情の種を蒔いたのは、葉留佳君だった。

 それまで感情を持たなかった女が初めて抱いた感情。それが、どこまでも感情豊かな少女への羨望だったとは……なんとも皮肉な話だ。

 

 

 

 翌日の朝、私が教室に入るとすでにそこには葉留佳君がいた。私の姿を見たとたんに、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。

「姉御、姉御ー、おはようございまっす!」

「うむ、おはよう」

「姉御〜、聞いてくださいヨ、お姉ちゃんってばひどいんですヨ〜」

 朝の挨拶もそこそこに、佳奈多君のことを話し出す。話の内容は、昨日ちょっとした悪戯をしただけなのに随分怒られただとか、小言が多いだとか、説教が長いだとか、葉留佳君の好きなみかんを粗末に扱うだとか、割とどうでもいい不満だった。特に最後とか。

 それに何より、言っている内容は佳奈多君に対する不満のはずなのに、それを語る葉留佳君の表情はむしろ嬉々としていて……まったく深刻そうには見えない。というよりむしろ、惚気にしか見えない。

 昨日のことにしたってそうだ。葉留佳君は昨日、私との会話を中断して佳奈多君にちょっかいをかけに行った。それはつまり、葉留佳君の中で私の優先度より佳奈多君の優先度の方が高いという事で。

 当然かも知れないが、所詮『姉御』では本物の姉には勝てないということか。以前の私なら、負けを悔しがることも、寂しがることも、嫉妬することも知らなかったというのに。葉留佳君はそれらを私に植え付けておいて、その上で敗北を突きつけてくる。しかも、本人にその自覚はないままに。本当に残酷だな、キミは……。

 そんなことを考えていると、半ば聞き流していた葉留佳君の言葉がふと耳に届いた。

「あーあ。姉御も私の本当のお姉ちゃんだったら良かったのになー」

「なん……だと……?」

 想定外の言葉に、思わず聞き返す。

「やー何て言うかですネ、折角仲直りしたんだからはるちんとしてはもっと楽しくいきたいわけですヨ。けどお姉ちゃんってば頭固いからなかなかそうは行かなくてさ。もし姉御もほんとの姉妹だったら、その影響でお姉ちゃんもちょっとは頭柔らかくなりそうだし。それにその方が絶対楽しいと思うのですヨ」

 つまり、葉留佳君は……どちらか一方ではなく、両方を選ぶ、ということか。それは、勝ち負けに目をつけている限り気付くことのできない、欲張りな第三の選択肢。

「ふ……フハハハハっ!」

「え、姉御? どうしたんですカ?」

 こらえきれずに笑い声を上げる。突然笑い出した私に、葉留佳君が怪訝そうに声をかける。

「ハハっ……いや、けしからんな」

「あ、でしょでしょ? もっと言ってやってくださいヨ、姉御」

「ああ、まったくもってけしからんな……葉留佳君は」

「へ? わ、私? お姉ちゃんじゃなくて?」

「うむ。被告、三枝葉留佳。判決、極刑」

 葉留佳君はまったくもってけしからん。私に感情を植え付けておきながら、自覚もなしに私をやきもきさせ、自分はお気楽に過ごしているのだから。おねーさんがちょっとオシオキしてやろう。

 判決を下し、葉留佳君の頭を抱き寄せる。そのまま葉留佳君の顔を胸の谷間に埋め、ぎゅっと抱え込んでやった。

「んぶっ!? むー、むーーっ!」

「フハハハハっ! おねーさんのおっぱいに溺れて悶え果てるがいい!」

 抜け出そうともがく葉留佳君。私の体を前に押し、谷間に挟まれた顔を後ろに逸らそうとするので、自然、葉留佳君が両手で私の胸を鷲掴みにする形になる。

「ん、うむっ……なんだ、葉留佳君はそんなに私のおっぱいを揉みしだきたかったのか。まあ相手が葉留佳君なら吝かではない。存分に堪能するがいい。ほれほれ」

「むーんむーむーー!」

 私達がそんな微笑ましいやり取りをしていると。

「来ヶ谷さん! 葉留佳! 何をしているんですかっ!」

 いつの間にやらそこには葉留佳君の姉にして目下私の最大のライバル、佳奈多君がいた。妹のピンチにどこからともなく参上、と言ったところか。

「何って、スキンシップだよ。見て分からんかね、佳奈多君」

 平然と答え、葉留佳君を解放してやる。

「ぷはっ! し、死ぬかと思いましたヨ……」

「うむ、天国が見えただろう?」

 荒い息をつく葉留佳君は足下がフラフラしている。今度はそっと、後ろから葉留佳君の肩を支えてやる。葉留佳君も今度は大丈夫だと判断したのか、こころもち体重を預けてきて、ほぅと悩ましげなため息をつく。うむ、役得役得。

 そして、その私達の動作を見た佳奈多君の眉がぴくりと動いたのを、私は見逃さなかった。

「……来ヶ谷さん、以前から思っていたのですが、あなたのスキンシップとやらは行き過ぎなんじゃありませんか?」

 佳奈多君の声は普段のものに輪をかけて冷たい。何とか平静を装っているが、内心では随分と苛立っているのだろう。更に神経を逆撫でしてやる。

「まあ最愛の妹を思う存分ハグしたいと思いながらも素直になれない佳奈多君にしてみれば、私達のスキンシップに嫉妬する気持ちも分からんではない。だが、このぐらいは普通だぞ」

「ひゃっ、ぁ、あねごぉ……」

 腕を回し、佳奈多君の目の前でこれ見よがしに葉留佳君の体をべたべたと触る。まだ酸欠から回復しきってない葉留佳君が、私の腕の中で妙に艶めかしい声を上げた。

「来ヶ谷さんと一緒にしないで下さいっ! 私はそんなこと思ってません! おまけに言ってる側から何をやってるんですかっ! さっさと葉留佳を離しなさいっ!」

 うむ、苛立ってる苛立ってる。葉留佳君がやたらと佳奈多君にちょっかいをかける気も分かる。佳奈多君の平静の仮面を引き剥がすのは楽しかった。対照的に私は平然そのもので言い放つ。

「まあ落ち着け、佳奈多君。葉留佳君は何やらキミに不満があったようでな。キミへの文句を延々語り続けていたのだ。そして私はそんなことを言うものではないとオシオキしていたのだよ」

「ちょ、ちょっと姉御っ!?」

「へぇ…… それは本当なの、葉留佳……?」

 佳奈多君の注意が葉留佳君に向く。葉留佳君がびくりと震え上がるのが分かった。

「ね、ねぇ、お姉ちゃん……?」

「なぁに、葉留佳ぁ……? うふふふふふ……」

 地の底から響いてくるような不気味な声を響かせ、幽鬼のような足取りでこちらに近づいてくる佳奈多君。もはや佳奈多君の目には葉留佳君しか映っていない。

 ……それこそが、私の狙っていた状況だ。

「だがな、葉留佳君に佳奈多君流のオシオキをされると主に私が困るのだよ。なので渡すわけにはいかんな」

 言って、葉留佳君をひょいと抱え上げる。右手で葉留佳君の肩を抱き、左手は両膝の裏を支える。いわゆるお姫様抱っこの形だ。

 踵を返し……一気に駆け出した。

「あっ! ま、待ちなさい、来ヶ谷さんっ!」

 我に返った佳奈多君が慌てて声を上げるが、待てといわれて待つ馬鹿はいない。構わずトップスピードへ。

「『いやーっ、たすけてーっ!』勇者かなたんの善戦も空しく、魔王アネゴリオンに攫われてしまった王女はるちん! 王女はるちんの運命はいかに!? 続くっ!」

 ついさっきまで佳奈多君に怯えていた割りに、随分と芝居がかった口上をノリノリで叫ぶ葉留佳君。

「……意外と余裕なのだな、葉留佳君」

 葉留佳君は暴れることも無く私に抱かれており、さらにしっかりと私の首に両腕を回している。

「いやーこういうのもヒロインっぽくてちょっといいかなーとか思いまして」

「なるほど、では大人の世界では囚われのヒロインがどういう目に遭うのか、たっぷり教えてあげよう」

 葉留佳君に顔を寄せて囁きかけ、足を支えている左手をずらす。短いスカートとオーバーニーソックスに挟まれた絶対領域、肉付きのいい葉留佳君の太ももをさわさわと撫で上げる。

「ひゃあっ!? あ、姉御、どこ触ってんデスカっ!?」

「太ももだが?」

「当たり前のことのように答えないで下さいヨっ!」

 葉留佳君の突っ込みは無視して、さらに左手を動かす。ぴらり。

「……ふむ、水色のしましまか。いいチョイスだぞ、葉留佳君」

「って何を見てるんデスカっ!?」

「ぱんつだが?」

「だから当たり前のことのように答えないで下さいヨっ!」

 走りながらも、馬鹿な会話の応酬を繰り広げる。ああ、やはりこの娘は私が生まれて初めて手にした、感情そのものなのだ。葉留佳君が姉である佳奈多君と同等に自分を必要としている。そう言って貰えただけで、柄にもなく浮かれている自分がいる。

 背後から、佳奈多君の怒鳴り声が響いてきた。普段なら撒くのも容易いところだが、さすがに葉留佳君を抱えたままではそうはいかないようだ。

「葉留佳を解き放ちなさいっ! その子は私の妹なのよっ!」

 必死でこちらを追っているためだろうか、佳奈多君もいい感じに仮面がはがれ、言動が壊れだしている。負けじとこちらも後ろに向けて怒鳴り返す。

「黙れ小娘! お前にこの娘が救えるかっ! ……あと、女の嫉妬は見苦しいぞ、佳奈多君っ!」

 ……佳奈多君。キミにとっての葉留佳君が、複雑な環境の中でも長年守ろうとし続けてきた、大切な妹であることは承知している。だが、葉留佳君は私にとっても大切な妹分で……そして、私が生まれて初めて得た、感情そのものなのだ。

 たとえキミにであろうとも、易々と譲り渡しはせんぞ。

「そ、それで姉御。このままどこへ逃げるつもりっスか?」

 手でスカートの裾を押さえながら葉留佳君が遠慮がちに聞いてくる。

「うむ。ちょうど、『相手と二人きりで体育倉庫に閉じ込められるおまじない』なるものを仕入れたばかりなのでな。折角だから試してやろう」

「何なんデスかそのピンポイントなおまじないは……」

「まあ気持ちは分かるが……実際あるものは仕方ない」

「なーんか、怪しいですネ……閉じ込められてそのまま出られないとかなりそうですヨ」

「なに、ちゃんと解呪の方法もある。安心しろ、出られるさ。……たっぷりと楽しんだ後で、だがな」

 言って、口の端を吊り上げて見せる。葉留佳君の大きな瞳が怯えに彩られる。

「あ、姉御……本気っスか?」

「うむ、本気だ」

 きっぱりと肯定する。葉留佳君はしばし、私の目をじっと覗き込み……。

「た、助けてぇー! お姉ちゃーーん! 姉御に犯されるーーー!」

 声を上げ、じたばたと暴れだす。私は腕に力を込め、しっかりと葉留佳君の体を抱き締め直す。

 ……手放してやるものか。

「フハハハハハっ!」

 高らかに笑いながら廊下を駆け抜ける。私の胸の中では、感情が騒いでいた。

 

 

 

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