その日、私は夢を見た。

 懐かしい、夢。

 まだ私が……私たちが小さかった頃の夢。

『ねえねえおねえちゃん、はやくいこうよっ!』

『はいはい、わかったからあんまりせかさないで』

 まだ、“あいつ”のことを姉と呼んでいた頃。

『ほらほらはやくはやくっ!』

『ちょ、ちょっと、そんなにひっぱらないでよっ』

 幼い私はあいつの手を取り、走り出す。

『もう、しょうがないわね、はるかは……』

『あははははっ、ごーごー!』

 呆れたように言いながらもついてくるあいつ。その手を引き、はしゃぎながら駆けていく私。

 二人で出かけるのがそんなに嬉しいのか、我ながら本当に屈託の無い笑みを浮かべていた。

 その、かつて自分が浮かべていた笑顔が、どうしようもなく悲しかった。

 

 私は、今見ている光景が夢であることを理解していた。

 これは、夢。

 これは、過去のこと。

 もう二度と戻れない、過去のこと。

 こんなこと、もう二度と現実になるわけが無いんだから……。

 

 

 寝覚めは最悪だった。頭の奥が重い。胸の中がもやもやする。なんとなく全身がだるい。それらを押して体を起こせば、あくびをしたわけでもないのに目尻から涙がこぼれ落ちてきた。

「馬鹿だなぁ、私……」

 涙を拭うと、自然と言葉が出た。今更、あんな夢を見てどうなるって言うんだろう。そりゃあ、私だってあいつとの殺伐とした関係を望んでるわけじゃない。今の関係よりは昔みたいな関係の方がずっといいに決まってる。

 でも、でもだ。あいつはこれまで散々私に酷いことしてきた。例えあいつが謝ってきたって、はいそうですかと許せるわけがない。あいつも同じような目に合わせてやりでもしないと気が済まない。そもそもあいつが謝ってきたりなんかするわけがないし。

「はぁ……」

 ため息をつきながら時計を見れば、まだ随分と早い時間だった。普段なら二度寝するところだけど、なんだかそれさえも億劫だった。何より、今寝直したらさっきの夢の続きを見てしまいそうで、それがたまらなく嫌だった。私はのろのろと立ち上がり、朝の支度を始めた。

 

 

「三枝葉留佳、あなたも懲りないわね。また自販機を叩いて不正に缶を出したわけ?」

  ……ほらね。こいつが謝ってきたりなんかするわけがない。

 昼休み、自販機でジュースを買ったら、ルーレットで当たりが出てもう一本貰えた。もともと買った分と当たりで手に入った分の二本のジュースを抱えて廊下を歩いている私に、あいつが刺々しい声をかけてきた。

「……前にも言ったじゃん。当たりが出ただけだって。自販機叩いたりなんかしてない」

 前にもこんなことがあった。ルーレットの当たりで貰ったのに、それを自販機を叩いて出したとか何とか言いがかりつけられて、結局当たった分のお金まで払わされてしまった。

「はっ、そう何度も何度も当たりが出るわけないでしょう。するならもっとマシな言い訳をすることね」

 そして今回も、私の言葉は鼻で笑い飛ばされる。確かにそんなしょっちゅう当たるものではないんだろう。でも、私は間違いなく当たりを出していた。前回も、今回も。それがどんなに珍しくても、実際に当たったんだから仕方ないじゃないか。

 そんな私の考えをよそに、あいつは私の腕の中の二本の缶をすっと取り上げた。当たりで出た一本だけでなく、ちゃんとお金を払ったもう一本まで。

「あっ! な、何するのさ!」

「何って、没収よ。不正に出したんだから当然でしょう?」

「そんなことしてないって言ってるじゃん!」

「どの口が言うのかしらね。信用されたければ、普段の行いをどうにかしなさい。あなたはただでさえ厄介者なんだから」

「……っ!」

 言って、蔑みの目で見下してくる。その目を見て、ようやく気付いた。

 目の前にいるこいつは、“かなた”じゃない。“ふたき”なんだ。親戚のやつらと一緒。馬鹿みたいな掟に踊らされて、わけの分からないことを押し付けてきて、出来なければ酷い目に遭わせてくる腐った連中と同じだ。

 もう、“かなた”はいないんだ。そう気付くと、昨夜見た夢も、今ここでこうしていることも、何もかもが馬鹿らしく思えてきた。

「どうしたの? いつもみたいに噛み付いてこないわけ? それともただ単に反論の言葉さえ思いつかないのかしら?」

 嘲りの笑みを浮かべ、挑発してくる。確かにいつもだったら、何か言い返し、食って掛かっていただろう。でも、今はそんな気になれなかった。こいつと同じ空気を吸っていることさえ嫌だった。

 目を合わせないまま、くるりと背を向ける。

「……お昼ご飯食べる時間なくなるから。もう行く」

「あら、逃げるの? さすがはゴクツブシのロクデナシのヤクタタズね」

「……っ!」

 それ以上言わずに走り出した。早くここから立ち去りたかった。廊下を走るなとか言われるかと思ったけど、後ろから聞こえてきた言葉は違っていた。

「最低ね……最低」

 両手で耳を塞ぎ、更に足を速め、全力で駆け出した。確かな行き先も無いまま走る私の胸に、今更一つの思いが浮かんできた。

 ……もう、あの優しかった“かなた”はどこにもいやしないんだ……。

 

 

 ……なのに……。

「クドリャフカ」

「あ、佳奈多さんっ」

「口の横にご飯粒が付いてるわよ」

「えっ、どこですかっ」

「ああもう、じっとしてなさい、取ってあげるから」

「ん、んっ……ありがとうございます、佳奈多さん」

「まったく、しっかりしなさいよね……」

 空き教室で一人、味のしないパンだけのお昼ご飯を済ませて戻ってきた私が見たのは、ほっぺたにご飯粒を付けたまま、ぱたぱたとあいつに駆け寄るクド公と。

 そんなクド公にやれやれと言いつつも世話を焼く、姿こそ大きくなっているものの、夢で見た“かなた”とまったく同じ表情を浮かべたあいつの姿だった。

 飲み物もなしにパンを食べたりしていたからか、どうしようもなく胸がむかついた。クド公とあいつは、距離があるせいか私に気付かないまま何やら話し込んでいる。話の内容は耳に入らなかった。けれど、クド公が満面の笑みであいつに話しかけ、あいつがたまに呆れながらも相槌を打っていることだけは遠目にでも分かった。ほんの十数分前のあいつとはまるで別人だった。

 

 ……なんで?

 “かなた”はもういないんじゃなかったの?

 なんで、“かなた”がそこにいるの?

 なんで、その隣にいるのはクド公なの?

 どうして、私じゃないの?

 どうして、クド公には変な言いがかりつけないの?

 どうして、クド公にだけは優しいの?

 なんで。どうして。なんでなんでなんでなんでなんでどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 

「……そろそろ昼休みも終わりよ。教室に戻りなさい、クドリャフカ」

「はいっ。佳奈多さん、しーゆーれいたー、なのですっ」

 クド公とあいつがそこからいなくなっても、私はその場を動くことができなかった。ただただ、呆然と立ち尽くすばかりで……私がようやく我に返ったのは、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったときだった。そんなだから、午後の授業は当然遅刻してしまって、後でまたあいつに嫌味を言われた。

 

 

「バッティング練習スタートだ!」

  放課後、リトルバスターズでの野球の練習。ライトの守備についた私は、恭介さんや理樹くんの掛け声をどこか遠くに聞きながら、クド公の様子を見ていた。

 小さな体で一生懸命にボールを追い、グラウンドを駆け回り、たまに失敗してボールにぶつかっているクド公の姿は、姉御じゃないけど素直に可愛いと思えた。

 けど……どうしてだろう。クド公が可愛いのはいつものことなのに。あんな風に頑張ってるのを見ると、いつもならなんだかほのぼのした気持ちになれるのに。今日に限ってそうは思えなかった。むしろその反対だった。クド公が頑張っていれば頑張っているほど、可愛ければ可愛いほど、胸の中になんだかもやもやしたものが積み重なっていった。そのせいか、ちっとも練習に集中できなくて、何度もエラーをしてしまった。

 

「葉留佳さん、ちょっといい?」

 休憩時間になってすぐ、理樹くんが話しかけてきた。

「ん、いいけど、何?」

「葉留佳さん、どこか具合悪いの? 今日はこっちのクラスに来なかったし、口数も少ないし、練習でも調子出てないみたいだったし」

 そんなにいつもと違っていただろうか。自分ではよく分からなかった。とりあえず、意識して普段通りの調子で答えてみる。

「やはは、なんか昨日は夢見が悪くってさ。はるちんちょっぴり本調子じゃなかったりするわけですヨ。ごめんごめん」

 嘘は言ってない。変な夢を見たせいで、朝からどうも調子がおかしいのはほんとの事だ。

「そう? それならいいんだけど……」

 理樹くんはちらりとあたりを見回し、声を潜めて言った。

「……クドと、何かあったの?」

「……え?」

「葉留佳さん、さっきからずっとクドの方を見てたよね? 今日の葉留佳さんがクドを見る目……何ていうか、ちょっと恐いよ。クドと喧嘩でもしたの?」

「……別に、クド公と喧嘩なんかしてないよ」

 驚いた。クド公を見てたのを気付かれたことに。クド公を見る目が恐いと言われたことに。そしてそれ以上に驚いた。自分でもぞっとするほど冷たい声が出たことに。

「いや、でもさ……」

 理樹くんは納得できてない様子だ。それはそうだろう。急にあんな冷たい声出されて何もないなんて、信じる方が難しい。でもそれは本当のこと。別にクド公と喧嘩なんかしてない。

 そのとき、理樹くんの後ろから小さな影が覗いた。近づいてきた影の持ち主は、おずおずと言葉を発した。

 「あ、あの、三枝さん……ひょっとして私、何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」

 それは、クド公本人だった。

「クド公は別に悪いことなんかしてないよ」

 そう。クド公は何も悪くない。悪いのはあいつなんだから。でも、その思いとは裏腹に、私の声はさっきよりさらに冷たかった。

「で、でも、その、やっぱり私……」

 おどおどと視線をさまよわせ、時々こっちをちらちらと見てくるクド公。その煮え切らない態度に、なんだか腹が立ってくる。胸にたまったもやもやがイライラに変わっていく。

 私はなんとかイライラを抑えようと努めながら、もう一度言った。

「クド公は、何も悪くない」

「で、でも……」

 尚も何か言おうとするクド公に、イライラが頂点に達した。

「クド公は何も悪くないって言ってんじゃん! もういいからほっといてよっ!」

 思わず大声を出してしまう。クド公も、理樹くんも、離れたところにいたみんなも、誰もがぎょっとした瞳を私に向けていた。それがどうにもいたたまれなくて。

「……っ!」

 私はみんなに背を向け、そこから逃げ出した。

 

 

 みんなから逃げ出した私は、中庭のベンチに一人腰掛けていた。そっとベンチの背もたれを撫でる。このベンチは私にとって思い出深いものだった。入学して間もない頃は、何をすればいいかも分からなくて、日がな一日このベンチに座っていたものだ。

「なんか、懐かしいや……」

 みんなにも嫌われちゃっただろうか。だとしたらまたあの頃みたいに、ここで日がな一日すごすのだろうか。

「馬鹿なことやっちゃったなぁ……」

 自分で自分が嫌になる。何も悪くないクド公に当り散らして。ふと、あいつの言葉が頭を過ぎった。『ゴクツブシのロクデナシのヤクタタズ』。『最低ね……最低』。……その通りかもしれない。 きっと、あいつだって私なんかよりもクド公みたいな妹が欲しかったんだ。もし妹がクド公なら、あいつだってあんな風にならなかったんだ。

「私、最低だ……」

 俯いて呟く私に、意外なところから声が返った。

「三枝さんは、最低なんかじゃないですっ」

 振り向くと、そこには他でもないクド公が立っていた。

「三枝さん、ごめんなさいっ!」

 クド公はいきなり頭を下げてくる。

「何でクド公が謝るのさ! さっきも言ったじゃん、クド公は何も悪くないって!」

「私、三枝さんに嫉妬したんです。リキに心配されて、声をかけてもらってた三枝さんに」

 思わず声を荒げる私だが、クド公はさっきみたいに臆することなく、きっぱりと言葉を紡ぐ。

 クド公が理樹くんのことを好きなのは知っていた。というより、リトルバスターズのメンバーで気付いてないのは理樹くん本人と、あとはせいぜい鈴ちゃんぐらいだろう。

 だったら、嫉妬したというのもまあ分かる。けれど、それなら……。

「だから、リキの前でいい格好しようと、よくわかりもしないまま謝る形だけして、それで逆に三枝さんを傷つけてしまって……本当にごめんなさい、三枝さんっ!」

 そう言ってクド公は深々と頭を下げる。けれど、それは……違う。

「違うよ! クド公は何も悪くない! 嫉妬してたのは私の方! あいつが私には辛くあたるのにクド公には優しくて、それで……ただの私の八つ当たりだったんだよ!」

 そう、最初に嫉妬したのは私の方。私には辛く当たるあいつに優しくしてもらえるクド公。そのクド公に、私が嫉妬した。それがそもそものはじまり。

 クド公は顔を上げ、驚いたような目を向けてきたが、やがて一つの疑問を投げかけてきた。

「……三枝さん、あいつというのは、誰のことなのですか?」

「それは……ごめん、言えない」

 当然の疑問だと思う。でも、それに答えちゃいけない。あいつと私のことは誰にも言っていない。リトルバスターズのみんなにも、だ。もしかしたら恭介さんや姉御あたりは薄々気付いてるかも知れないけど、クド公は知らないはずだった。

「じゃあ、質問を変えます。三枝さんにとって、その人は大切な人なんですよね?」

「じょ……っ!」

 冗談じゃない。なんであんな奴のこと。そう答えたかった。けれど、クド公の真っ直ぐな目を見てしまうと、そう答えることができなかった。

 

 思い返してみれば……。

 昔の私はほんと、あいつにべったりで。

 あいつとまた仲良くしたいという思いをどこか捨てきれなくて。

 あいつが優しかった頃の夢を懐かしく思って、でも辛く当たられる今を思い出すと悲しくて。

 あいつから酷いことを言われるのは、同じことを他の誰から言われるのよりも苦しくて。

 あいつに優しくされるクド公がどうしようもなく羨ましくて、クド公は何も悪くないのに勝手に八つ当たりをして。

 それは、つまり……。

 

「……ぅん……」

 こくりと首を縦に振る。認めたくなかったけど……クド公の言うとおりなんだろう。

「だったら、お互い様ですねっ」

 頷いた私に、クド公はにぱっと笑いかけてくる。

「その人のこと、そんなに大切に思ってないのに嫉妬されたら、それは不公平だと思います。けど、三枝さんはそうじゃない。その人のことを大切に思ってる。だったらしょうがないです。大切な人のことで、他の誰かに嫉妬してしまうのは仕方のないことなのです」

「クド公……」

「だから三枝さん、仲直りしてもらえますか?」

 そう言って、手を差し伸べてくるクド公。いつもはちっちゃいわんこにしか見えないクド公だけど、このときばかりはなんだかクド公が大きく見えた。

「うん、ごめん、ごめんね……っ!」

  両手で差し出された手を取り、俯いて何度もごめんねと繰り返す私に、クド公は優しく声をかけてきた。

「三枝さん。二つ、約束して欲しいのです」

「うん、何……?」

「一つ。もし三枝さんに辛く当たっている人が三枝さんにちゃんと謝ったら、そのときは許してあげること。二つ。その人と仲直りできたら、そのことを教えてくれること」

「それは……」

 約束する意味が無いんじゃないかと思う。あいつが謝るなんて、考えられない。だから仲直りすることもあり得ない。

 だけど……もし、万が一、あいつが本心から謝ってきたなら……そのときは許してあげてもいいかなと思う。朝はそんなこと出来ないと思ったけど、今、こうしてクド公の小さくて温かい手のひらに触れていると、許してもいいような気がしてきた。

 だから、私ははっきりと頷いた。

「うん、約束する。あいつがちゃんと謝ってくれたら、そのときはあいつのことを許す。仲直りできたら、今回のことも含めて、全部クド公に話す」

「はいっ。約束ですよっ」

 クド公が、屈託の無い笑顔で笑いかけてきた。

 

――――――

――――

――

 

「……と、いうことがあったのです」

 私は、ルームメイトの佳奈多さんに、以前の三枝さん……じゃなかった、葉留佳さんとの出来事を話していた。

 二学期に入って、葉留佳さんは佳奈多さんが自分の姉であるという事を教えてくれた。いろいろな事情があって仲違いし、そしてまた仲直りするまでの経緯も話してくれた。葉留佳さんはあのときの約束を守ってくれたのだ。

「まったく、あの子はしょうがないんだから……」

「佳奈多さん、呆れたみたいに言ってますけど、頬が緩んでいるのですっ。本当は嫉妬してもらえて嬉しいんじゃないんですか?」

 にやけながらため息をつくという奇妙な行動をとる佳奈多さんに指摘する。

「な、何を言ってるのよ。そんなわけないでしょう」

「なんなら、鏡見てみますか?」

 佳奈多さんは否定するが、構わず鞄から手鏡を取り出し、手元でちらつかせて見せる。

「……クドリャフカ、あなた性格悪くなってない?」

「それはきっと、佳奈多さんに似たのですっ」

「……ほんと、言うようになったわね」

「まあまあ、今日は折角の姉妹水入らずでの買い物なんですから、楽しんできてくださいっ」

 今日、佳奈多さんと葉留佳さんは二人で買い物に出かける。なんでもこれが、仲直りして初めての二人での買い物らしい。それ自体は結構なことだが、昨日からの佳奈多さんの浮かれっぷりと来たら、酷いものだった。着ていく服を選ぶためにうんうん呻るわ、時々鼻歌を歌いだすわ、不意に緩みきっただらしない顔になるわ、ただ歩いていたはずがいつの間にやらスキップしているわ、今だって普段より気合入れて化粧してくるわ。

 姉妹での買い物というより、意中の男性とのデートを控えた恋する乙女のような浮かれっぷりだった。

 さっき私がしたちょっとした意地悪も、そんな風に浮かれきった佳奈多さんに対する冷やかしのつもりだった。

「お姉ちゃん、準備できたー?」

 ノックもなしに突然ドアが開かれた。入ってきたのは案の定、葉留佳さんだ。

「葉留佳、何度も言ってるでしょう。部屋に入る前にノックぐらいしなさい」

「えー、いいじゃんいいじゃん。ノックしてる間があったらドア開けて、早くお姉ちゃんの顔見る方がいいもん」

「な、何を言ってるのよ、この子は……」

 これが、現在の佳奈多さんと葉留佳さんの二人だ。数ヶ月前までの二人からは想像もできないだろう。葉留佳さんはこれまでの分を取り戻そうとするかのように佳奈多さんに甘える。佳奈多さんは小言は相変わらずだけど、なんだかんだで葉留佳さんに甘くて、人前じゃなければかなりデレデレだったりする。

 本人達は幸せなのだろうから結構なことだが……正直、まわりは辟易するばかりだった。

 

「んじゃクド公、お姉ちゃん借りてくね」

「クドリャフカ、行って来ます」

「お二人とも、行ってらっしゃい、なのですっ」

 パタンと音を立てて、ドアが閉じられる。

「ねえねえお姉ちゃん、早く行こうよっ!」

「はいはい、分かったからあんまり急かさないで」

「ほらほら早く早くっ!」

「ちょ、ちょっと、そんなに引っ張らないでよっ……もう、しょうがないわね、葉留佳は……」

「あははははっ、ゴーゴー!」

 ドア越しでくぐもった二人の声が、遠ざかっていった。

 

 一人部屋に残されて、ポツリと呟く。

「借りていく、ですか……」

 ……本当に借りていたのは、私の方だ。佳奈多さんは厳しいけど、それでも肝心なときにはとても優しくて。まるで、本物のお姉さんみたいだった。

 私は一人っ子だったから、ずっと兄弟に憧れていた。ストレルカたちがいたから寂しくはなかったけど、その思いが消えることはなかった。

 だから、佳奈多さんに優しくしてもらって、本当に、嬉しかった。

 だけど、その優しさは私ではなく、葉留佳さんに。本当の妹である、葉留佳さんだけに向けられるべきだ。

「だから……」

 言葉につまり、下を向く。そこには、先程の手鏡があって。鏡の中には、寂しそうな笑みを浮かべた自分がいた。

「だから……っ!」

 ぎゅっと目を閉じる。これで、自分の顔は見えなくなった。

 これでいい。

 きっと、これから私は酷い顔になるから。

「私は、姉離れを、します」

 覚悟を決めて、口にした。

 これからも、佳奈多さんの友達では、ルームメイトでは在り続けるつもりだ。けれど、これまでのように、必要以上に佳奈多さんに甘えるようなことはしない。それをしていいのは、世界でたった一人、葉留佳さんだけなのだから。

「さんくすまいしすたー、ぐっばい、なのですっ……!」

 ……ぱた、ぱたっ……

 水滴が二滴、手鏡の上に落ちた。

 

 

 

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