「ふう……」

 ようやく最初の通過点である川原にたどり着いたわたしは、ため息をついて額ににじみ出ていた汗を拭った。季節は秋。風が涼しくなり始めた日曜日の午前、空には雲ひとつない。今日は絶好の体育祭日和だろう。もっともうちの学校の体育祭はまだ少し先だったが。

「まあ、体育祭なんてろくに出たことないんですけどね、わたしは」

 誰にともなく呟く。そもそもわたしは体力がない方だ。それほど遠くない寮からここまでの道のりで額に汗をかいているのがその証拠。もう少し運動不足を改めるべきかも知れない。

 河原には心地よい風が吹いていた。わたしは土手に腰を下ろし、しばらく休憩をとることにする。そっと目を閉じると、いっそう風が涼しくなった気がした。

 さらさらと川の流れる音を聞きながら、わたしは昨夜の出来事を思い出していた。





 昨夜の寮でのことだ。自室でさっきまで読んでいた小説を読み終え、目を上げたわたしの視界に飛び込んできたのは、ルームメイトの能美さんが一抱えもありそうな大きな本を眺めている姿だった。

 能美さんは本を読まないというわけではないが、わたしのように本の虫というわけでもない。そして、小さな体の能美さんが大きな本を眺めるその様は何だか不釣合いで、彼女が読んでいる本に興味を覚えた。

「能美さん、何を読んでいるのですか?」

 わたしが話しかけると、彼女は本を置き、ぱっと笑顔をこちらに向けて答えた。

「はいっ、図鑑を見ていましたっ」

 なるほど、図鑑ならあの大きさも納得だ。実際、能美さんが机の上で広げたページには、様々な種類の犬達が写真つきで載っているのが見て取れた。

「本当に犬がお好きなんですね」

「はいっ! あいらいくどっぐ、なのですっ」

 楽しそうに棒読みの英語を使う彼女を見て、わたしは能美さん自身が犬のようだなどと、少し不謹慎なことを考えていた。

「他の色々な図鑑もセットになってるんです」

 小さな手で示す方向を見ればなるほど、彼女が見ていたのと同じ大きさ、同じデザインの図鑑がいくつも積まれている。背表紙にはそれぞれ、『魚類』、『爬虫類』、『昆虫類』などの文字が書かれていた。類ごとに分けられたさまざまな生物の図鑑がセットになっているのだろう。今能美さんが眺めていたのはさしずめ『哺乳類』といったところか。

「良かったら、西園さんもどれか見てみませんか?」

 邪気のない笑顔で言ってくる能美さん。それを無碍に断るのはなんとなく気が引けて、わたしは彼女の提案を受けることにした。図鑑を眺めたりなど普段はあまりしないが、たまにはこういうのもいいだろう。

「……では、こちらをお借りしていいですか?」

「はい、どぞどぞですっ」

 一番手近の図鑑を示して言うわたしに笑顔で答える能美さん。それを確認して件の図鑑を手に取る。ずしりとした重さのそれを机の上に置き、わたしはその表紙を開いた。



 しばしの間、無言の時間が続いた。ただ、わたしと能美さんがそれぞれページを捲るぱらぱらという音だけが部屋に響いていた。

 こうやって図鑑を眺めるというのも、存外に楽しいものだった。今まで知らなかった生物はもちろん、名前には親しみがある生物に関してもまだまだ知らないことだらけで、多くの発見があった。

 そんな調子であるページを開いたとき、わたしの目はそこに釘付けになった。

「……」

 食い入るようにそのページを見る。ページの両横を押さえる手に、自然と力がこもっていた。

「ところで明日はお休みですが、西園さんには何かご予定はありますか?」

 不意に能美さんが言葉をかけてくる。そう言えば今日は土曜日で明日は日曜日だ。

 わたしは、視線を図鑑に落としたまま答える。

「そうですね……明日は外出することにします」

 そうだ、明日は出かけることにしよう。このタイミングで翌日が休日というのは都合がいい。

「そうですか。どちらにお出かけですか?」

 再び問いかけてくる能美さん。わたしは図鑑から視線を上げて彼女に向き直り、答えた。

「青い鳥を探しに」 

 

  

 ――青い鳥――

 

 

 

 

 

 それを聞いた時の能美さんのきょとんとした顔が脳裏に蘇り、思わず頬が緩む。まあそれも当然の反応だろう。学生が休日に何をするのかと問われ、青い鳥探しと答えるなど。しかし、事実なのだから仕方ない。

「……もっとも、他にも言いようがあったのは確かなんですけどね」

 青い鳥探しではなく、野鳥観察、あるいは能美さん風に『ばーどうぉっちんぐ』とでも答えれば、能美さんももう少しすんなり納得できていただろう。けれど、目的の青い鳥以外の野鳥にはさほど興味がなかったこと、そして何よりそのときのわたしは随分と悪戯な気分になっていたことが、わたしにそう答えさせた。

「……我ながら随分影響受けてますね」

 呟いて、腰を上げた。そろそろ休憩も終わりにして、出発しよう。

 わたしが今いる河原は思い出深い場所だった。リトルバスターズの皆さんで集合写真を撮った場所。そして、いつかの世界で飛ぶ紙飛行機を眺めた場所。あの時には隣にあの人がいて、わたしは川の下流を見ていた。流れ行く川の果て……海の彼方に思いを馳せていた。

 けれど、今のわたしの隣には誰もいない。今日、わたしが目指す場所も下流ではなくその逆、上流だった。

 わたしが能美さんから借りた図鑑は、鳥類図鑑だった。何の気なしに眺めていたわたしだったが、一種類、ひどく興味を惹かれる鳥があった。それは比較的目撃例も多い野鳥の一種。それを探して、今日わたしはここへ出向いたのだった。

 目的の鳥は、水辺に棲む鳥だ。公園の池など、ある程度都市に近いところでも目撃されるが、やはり人の手の入っていない渓流などでの目撃例が特に多い。

 目の前の川を上流へと遡って行けばやがて渓流になっていることをわたしは知っていた。そこが隠れた野鳥観察スポットとなっているという話も聞いたことがある。近場でなら、そこが一番見つけられる確率が高いとわたしは踏んでいた。

 今日のわたしは、チノパンにTシャツ、その上からベスト、背にはザックを背負い、足にはトレッキングシューズを履いている。いつに無く活動的なスタイルだ。

 ……もっとも、普段出不精であるわたしはこんな服など持っておらず、体型が近く活動的な鈴さんに借りる羽目になったのだが。深く理由を聞きもせず、快く貸してくれた彼女には感謝してもし切れない。本人は構わないと言っていたが、なるべく汚さないように気をつけ、帰ったら丁寧に洗って返すことにしよう。

 とりあえずは目標を達成しよう。わたしは上流に向かって足を踏み出した。





 ……暑い。

 首にかけたタオルで汗を拭う。この動作ももう本日何回目か分からなくなったほどだ。

 秋の風には涼しいものが混じり始めていたが、それでも今日は雲ひとつない快晴。太陽に照らされ続けながら歩いていれば汗をかくのも当然だ。

 決して、わたしの体力が無さ過ぎるせいではない。……はずだ。

 どちらにせよ、日差しは決して強いわけではないが、ずっとそれに当たりながら歩くのはなかなかつらい。

 こんなことならあれを持ってくれば良かったかもしれない。ふと、今は使わずに部屋の片隅に置いてある白い日傘を思い出した。

 とは言え今更言っても仕方ない。わたしは手近の木陰に腰を下ろした。時間はちょうど正午過ぎだ。ここでもう一度休憩を入れることにしよう。

 ザックからサンドイッチの包みとペットボトルを取り出す。一番にボトルのキャップを外し、中身を乾いた喉に流し込む。ボトルのお茶はややぬるくなっていたが、それ以上に火照っていたわたしの体には十分に心地よかった。

 喉が潤ったところでサンドイッチを齧り、体を休める。小一時間ほどそこで休憩し、再び立ち上がった。

 先はまだ、遠い。





 ……歩きにくい。

 わたしは茂みの中の小路を進んでいた。

 辛うじて人の踏みしめたものだと分かる小路は、しかし半ば獣道のような様相を呈している。何度も飛び出た木の根に足を取られそうになりながら、注意して進む。

 こんな茂みの中では、注意すべきは木の根だけではない。何かの虫や、もしかしたら蛇だっているかもしれない。一応虫除けスプレーを露出した腕や首筋に噴いてきたが、それで完全に虫が防げるとは限らない。蛇なら尚更だ。

 少ないとは言え人通りのあるらしいこの道で、そういったものに出くわす可能性は高くないが、皆無でもない。注意するに越したことはないだろう。

 正直に言って、少し疲れている。またしばらく休憩を取りたい気持ちはあったが、こんな茂みの中で腰を下ろすなんてぞっとする。開けた場所に出るまでは我慢しよう。そう思って、進行方向を見据える。先には木立が見える。今のわたしの周辺より深い木立が。いや、あれは林、あるいは森と言った方が正しいのではないだろうか?

 どうやら次の休憩は随分先になりそうだ。右手に流れる川を頼りに、わたしはまた上流へ向かって歩き出した。





 不意に視界が開けた。今まで薄暗かった周囲が急に明るくなり、眩しさに目を細める。やがてその明るさに慣れてきて開いた目に、その光景が映る。それは、間違いなく渓流だった。

 唐突に途切れる木々、そしてその先に広がる渓流。恐らくここが隠れた野鳥観察スポットとやらで間違いないだろう。ちらほらと野鳥の姿が見える。だが残念ながら、目的の青い鳥は見あたらなかった。

 しかし、それでもいい。とりあえず休憩しよう。木立が途切れるまでには予想以上の時間がかかり、わたしはかなりの疲れを覚えていた。近くにあった平らな岩の上に腰を下ろす。チノパン越しにお尻に伝わってくる、ひんやりと冷たく硬い感触が心地よかった。

 ザックからペットボトルを取り出し、お茶を飲む。もう半分も残っていなかった。水なら目の前に大量に流れているが、一見綺麗に見える水でも迂闊に飲んだりするのは危険だ。煮沸でもできればいいのだが、生憎そんな道具は無い。もう一本多目に持ってくれば良かったと後悔しながら、中身の減ったペットボトルをザックに戻した。



 不意に、視界を何かが横切った。それは青い色をしていた。

 ……まさか、今のは。

 わたしは慌ててザックを背負い、そして、あろうことかそれを追って走り出した。

 もう少し休むつもりだった、疲れきった足で。

 ゴツゴツして歩きにくく、そこで転べば怪我は免れないであろう岩場の上を。

 なぜこうまで慌てるのか、自分でも分からないままに。

 わたしは、走り出していた。

 前方左手には、わたしの身長よりも大きい岩があった。その岩の先に青いそれは消えた。わたしはそれでも走る。左手を岩の側面に突き、そこを支点に勢いはそのまま回り込む。そうして岩の裏側に回りこんだ、その時。

 わたしは遂に、その姿を捉えることができた。



 川の上にせり出した木の枝に止まっている、青い小鳥。それは、わたしが今日ここへ出向いた目的。一目見たいと思っていた鳥、カワセミだった。

 カワセミは、枝の上からじっと川の流れを覗き込んでいた。動く様子はない。

 わたしの呼吸は乱れていた。左手を突いている岩に体重を預け、ぜえぜえと荒い呼吸を整える。しかしその間も、わたしの視線がカワセミから外れることは無かった。



 しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた。その間も、じっとカワセミは川の中を覗き込んでいた。

 ここからカワセミの姿は見えるのだが、木の枝が邪魔で、しかも距離が若干あるためにはっきりとは見えない。わたしはあまり目が良くないので尚更だった。

 もう少し近づこうと、音を立てないように注意しながら足を踏み出そうとした、その瞬間。カワセミが翼を広げ、矢のような速さで水の中に飛び込んでいた。

 ざぱっ、と音を立て、水面に水しぶきが上がった。瞬きする間もなくもう一つ、ざぱりという音。再び水しぶきを上げて水面から飛び出すカワセミ。わずかに濡れた翼を羽ばたかせて飛び、わたしの目の前の枝に止まる。その嘴の間には、一匹の魚が咥えられていた。

 今の出来事を、もう一度まとめてみよう。

 止まっていた枝を揺らし、勢い良く川に飛び込んだカワセミ。水しぶきを立てて飛び込み、それが収まりすらしないうちに魚を嘴で捕らえ、再び飛び立つ。そして、手近の―わたしの目の前の―枝に止まる。この間、せいぜい5秒と言ったところか。

 これが、カワセミの狩り。見事な早業だった。

 まだぴちぴちと動く、活きのいい獲物を捕らえたカワセミは、何かを探すようにきょろきょろと視線をさまよわせ。

 そして……わたしと目が合った。

 野鳥の多くは警戒心が強いと聞いていたので、遠くからでも観察できるよう双眼鏡も用意していたが、どうやらそれは不要だったらしい。人間に慣れているのか、カワセミは手を伸ばせば触れそうなほど近くにいるわたしにも怯えることなく、つぶらな瞳でこちらを見つめ、魚を咥えたままちょこんと小首を傾げる。

 一目見ようとしていたカワセミを目の前に、わたしはまた昨夜を思い返していた。



 わたしがカワセミを見たいと思ったのは、そのために背負う苦労を考えれば随分と滑稽で、しかも感傷的な理由からだった。

 能美さんに借りた鳥類図鑑。それを眺めていたわたしの目に、不意にその文が飛び込んできた。

 『青緑色の美しい鳥』。

 青“みどり”色の“美”しい“鳥”。

 ――美鳥。

 妹を思わせるその文字に惹かれ、わたしは食い入るようにそのページに読み入った。

 カワセミ。ブッポウソウ目カワセミ科に分類される小鳥で、体長は17cm程度。水辺に生息する。長い嘴が特徴で、青緑色の美しい鳥。

 それが、図鑑の中の記述だった。



 実際こうして見てみれば、想像以上にカワセミの姿は妹を思い起こさせた。図鑑には青緑と書かれており、事実写真では青緑だったその翼の色は、光の加減だろうか、鮮やかな青色に輝いていた。それはあの子の髪の色だった。そして、胸の橙はあの子の瞳の色。何より、どこか悪戯っぽくちょこちょこと首を動かす様が、あの子の悪戯っぽい笑みを彷彿とさせた。

 また、図鑑にはカワセミの狩りの様子についても記述されていた。木の上や空中から一気に水の中に飛び込み、瞬時に魚を咥えて水中から飛び出す、鮮やかなその狩りの技。先程実際に目にしたそれは、本当に見事なものだった。

 “美”しく“魚”を捕らえる、“美”しい“鳥”。

 文字にしてみればそら恐ろしいほどに嵌まりすぎた構図。

 鳥の嘴にかかった魚は、鳥の糧となって消えていくのだろう。そのはずだった。そのはずだった、のに。

 わたしの方をじっと見つめていたカワセミが、何を思ったのか突然嘴を開いた。挟まれていた魚の体が嘴からこぼれ、宙に舞う。日光に銀の鱗が煌き、ぽしゃんと音を立てて魚は水の中へと帰った。魚はそれを待っていたかのように滑らかな動きで下流へと泳ぎ、すぐにその姿は見えなくなった。

 あの魚は完全な淡水魚なのだろうか。それともいずれは海に出て、海の彼方を目指すのだろうか。ふとそんな疑問が過ぎる。しかし、わたしの頭の大部分は、もう一つのもっと大きな疑問によって占められていた。

 生物が自らの存在を維持しようとすることは生存本能によるもので、当然のこと。たとえそのために他者の存在を侵すことになろうとも、変わらない。

 鳥は魚を捕らえた。魚は抵抗しなかった。鳥が存在し続けるためには、魚の存在を侵す必要があった。けれど、鳥はそうせず、魚をそのまま元いた場所へと帰した。

「どうして、ですか……?」

 それは、生物の本能に反すること。なのに何故、あなたはそれを選択したのか。自分が消えてしまうかも知れないというのに。目の前のカワセミに対してか、あるいはそれ以外の何かに対してか、わたしは問いを投げかけていた。

 カワセミはわたしに答えるかのように、チィ、と一つ鳴き声を上げた後……翼を広げ、飛び立った。

「あっ……」

 思わず手を伸ばすが、その手は空を切る。カワセミはこちらに背を向けて飛んでいく。高く、遠く。その後姿はどんどん小さくなっていく。もう、手など届くはずもない。

 落胆しながら伸ばした手を引っ込めた、その時。

「まったく、美魚ったらいつまでも感傷に浸って。しょうがないなあ」

 不意に、あの子の声が聞こえた。

「えっ? 美鳥!?」

 驚いたわたしは、きょろきょろとあたりを見回す。しかし周囲には誰も見あたらない。声は確かに聞こえたのに、どちらから声がしたのか分からなかった。そんなわたしの耳に、再びあの子の声が届いた。

「言ったよね? 空気みたいになって、そばで見てるって。美魚からは見えなくたって、それでも確かにあたしは存在していて、ずっと美魚と一緒にいるって」

 そこで気付いた。あの子の声がどこから聞こえるのか。そんな答えは決まりきっていた。空気のような存在になった美鳥。空気が寄り集まって形作られるもの。

 ――空。

「美魚だって年頃の女の子なんだから、妹のことなんか思ってる暇があったら男の子の一人でも捕まえればいいじゃない。シスコンもいい加減に卒業しなきゃ」

 顔を上げる。木々が開けた先には、雲ひとつない青空が広がっていた。

「……ま、あたしもちょっとだけ嬉しかったけどね。でも、いつまでもこうしてちゃダメ。こんなのはもうこれっきりだよ」

 見えないけれど、確かにわかる。空の青を背景に、あの子がどこか悪戯っぽい瞳でわたしを咎めていることが。

「あたしはあなたの幸せを願っているんだから。しっかりしてよね。……あたしの、大好きな、お姉ちゃん」

 ばさり、と。

 聞こえないはずの羽音を立て、姿の見えない何かが飛び立っていったのを、わたしは確かに感じた。

「美鳥……」

 空に向かってその名を呼んだ。偶然か、はたまた必然か。わたしが呼びかけていたのは、まさにカワセミが飛び立っていった方向だった。

 もし雲が青ければ、それは青空に溶けて見えなくなる。

 秋の空はどこまでも広く青く澄みわたっていて、もうそこに青い鳥を見つけることはできなかった。

 

  

 

 

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