今日も私は一人、何をするでもなくただぼんやりと中庭のベンチに座っていた。

 周囲を見回しても、放課後の中庭には私以外の人の姿は無く、そこに音を立てるものは無い。それだけに遠くグラウンドの方から聞こえてくる喧騒がやけに大きく聞こえた。恐らく、体育系の部活に打ち込む人たちの声だろう。

 ……私も、以前はあちら側の人間だった。いや、正確にはグラウンドで掛け声を上げたりはせず、むしろ静謐を是とする道場でではあったが、部活動に打ち込み、そこに価値を見出していたことには変わりない。

 だが、病気で右目の視力を失った私は部活を、ずっと続けていた弓道を断念せざるを得なかった。幼い頃から弓道一筋だった私はそれ以降、何もすることが無かった。私は右目の視力と共に、居場所までも失ってしまっていた。

 ただ朝起きて、朝食を摂り、上の空で授業を受け、日が暮れるまでここでぼんやりと過ごし、夕食を摂り、眠る。完全にパターン化された、無彩色の日々を過ごしていた。こんな毎日が、いつまでも続くような気がしていた。

 

 不意に、視界の隅に動くものが映った。それはころころと転がって来て、私の足に当たって止まる。上半身を屈めて拾い上げた。砂埃をかぶり薄く黄ばんだ……野球のボール。

 野球のボール? だが今、野球部は活動停止中と聞いていたが。そこまで考えたところで気付いた。最近グラウンドで野球をしているらしい、校内でも有名な男女十人のグループ。リトルバスターズ。確か、彼らはそう名乗っていた。

 彼らグループとは特に親しいわけではなかったが、うち一人には面識があった。剣道部の宮沢さん。片目を失明し、することの無くなった私の話し相手になってくれた人。彼は私に言った。趣味でも見つければいい、と。だが、私は未だそれを見つけることが出来ずにいた。

「あっれー? こっちに来たと思ったんだけどなー」

 唐突に、人気のない中庭に場違いな良く通る女子の声が響き渡る。声の方向に目をやると、校舎の角から姿を現した一人の女子生徒。きょろきょろとあたりを見回す彼女と、目が合った。

「……これを、お探しですか?」

 そう言って、手の中の白球を掲げて見せる。

「あっ、それそれ! 拾ってくれてありがとう、古式さん……だったよね?」

 言いながらぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる、その女子生徒。特徴的なツーテールをぴょこぴょこと揺らす彼女は、三枝葉留佳さん。騒々しいグループの中でも一際賑やかな人で、いつも風紀委員の方達に追いかけられている印象がある。

 私の目の前まで走り寄ってきた三枝さんに、どうぞと言ってボールを差し出す。それを受け取った彼女は、ふと眉を顰め、私の顔を覗き込んでくる。

「あの、もしかしてボールどこかに当たっちゃった? 顔色悪いけど…だいじょうぶ?」

「いえ、大丈夫です。ただ、何もすることが無いから座っていただけです」

 実際には足に当たったのだが、大したことも無いのでそう答えておく。

 三枝さんは一瞬目を見開き、何やら迷うような素振りを見せた後。

「あー、その、もし良かったらなんだけどさ……」

 遠慮がちに口を開いて。

「……一緒に野球、やらない?」

 そう、脈絡の無いことを口にした。

 

 

 

 三枝さんは不思議な人だった。

 彼女の脈絡の無い野球への誘いを、私は片目では距離感が掴めず危険だからという理由で断った。だが、翌日も、その更に翌日も、彼女は放課後のたびに中庭に姿を見せ、私に話しかけてきた。野球の誘いは最初の一回のみで、それ以降は毎日別の、とりとめの無い話題を振ってきた。

 私の目のことは校内に知れ渡っていた。誰もが腫れ物に触れるかのように私に接する中で、彼女だけは何の気負いもなしに私に話しかけてきた。

 そんな彼女を最初は五月蝿いと感じたりもした。だが、だからと言って彼女を追い払う気力さえ湧かず、流されるままに彼女の話を聞いているうちに。

 

「だからね、はるちんこう言ってやったんですヨ」

「なるほど……」

 

 彼女の言葉に相槌を打つようになり。

 

「あの時の風紀委員の子たちの顔ったら。見ものだったなー」

「そ、それはちょっとやりすぎですよ……」

 

 苦笑しながら彼女を諫め。

 

「ねえ、みゆちんって呼んでいい?」

「み、みゆちん!? それって私のことですか?」

「もっちろん。古式みゆきだから、みゆちん。どうかな?」

「い、いえ…… それはちょっと恥ずかしいので……」

「むー。いいと思うんだけどナァ…… まあ恥ずかしいならしょうがないか……」

 

 彼女の提案を動揺しながら断り。

 

「で、恭介さんってば『黙っていれば可愛いのに惜しい』なんて称号つけるんだよ。ひどいよねー」

「黙っていれば…… ふ、ふふっ……」

「あーっ! 何でそこで笑うのさー!」

「ご、ごめんなさい、でも…… ふふふっ……」

「また笑うー! もう、古式さんも酷いよ、ぶーぶー!」

 

 彼女の話に笑い、それで膨れっ面になった彼女の顔を見て更に笑みを深くし。

 いつしか私は、彼女との会話に楽しさを見出していた。無彩色だと感じていた日々の中に彩りを見つけていた。

 だから、ある土曜日。

「ねえ、私ちょっと買いたいものがあって明日商店街に出るつもりなんだけど、もし良かったら付き合ってくれない?」

 そう言ってきた三枝さんに、弓道を辞めて以来予定とは無縁の生活を送っていた私は、一も二もなく頷いていた。

 

 

 

 翌日の日曜日。

 待ち合わせ場所の女子寮前に、待ち合わせ時間から5分ほど遅れて三枝さんは姿を見せた。

「古式さん、ごめんごめーん! 待ったー?」

「……遅刻ですよ、三枝さん」

 そう言えばこの人は学校でも遅刻の常習者だった。やれやれとため息をつく。三枝さんはごめんごめんと軽い調子で謝ってくる。あまり反省はしていなさそうだ。

「ところで、今日は何を買うつもりなんですか?」

「えっとねー……」

 そんな他愛もない話をしながら校門に向けて歩き出す。こうして外に出向くのも、考えてみれば随分と久しぶりだった。

 校門から出ようとした、その時。

 校門前に停車していた黒塗りの車。その後部ドアが開き、一人の男性が降りてきた。隣を歩く三枝さんがはっと息を呑んだのがわかった。

「三枝さん?」

 三枝さんに声をかける。様子がおかしい。普段のおちゃらけた雰囲気はなりを潜め、今、その表情に表れているのは…… 怯え? あの、いつも陽気な騒がし屋の三枝さんが、怯えている?

 つかつかとこちらに歩み寄り、私たちの目の前で立ち止まったその男性は、開口一番に口にした。

「久しぶりだな、ゴクツブシのロクデナシ、ヤクタタズの娘」

 その言葉に思考が追いつかない。この人は突然、何を言っているのだ? その男が腕を振り上げる様が、やけにゆっくりと見えた。

 

 ――パンッ。

 

 乾いた音が響き渡る。その光景ははっきりと見ていたのに、目の前の大人が平手で三枝さんの頬を打ったのだと理解するのに随分と時間がかかった。

 ……何だ、この状況は。

 わけがわからない。

 突然現れた男が三枝さんを口汚く罵り、その頬を張った。それ自体はわかる。だが、なぜ突然こんなことが起こっているのか。そもそもこの男は何者なのか。さっぱり分からない。

 三枝さんはひどくショックを受けた様子で打たれた頬を押さえ、俯いた顔には呆然とした表情を浮かべていた。その肩は小刻みに震え、足元は覚束ない。その姿を見て、何が起こっているのだろうと、この男が何者であろうと、私がすべきことは一つしかないことにようやく気付いた。

「何をするんですかっ!」

「……何だぁ?」

 震える三枝さんの肩を支え、一方しか見えない目に力を込めて目の前の男を睨みつける。男は不満そうな声をあげ、品定めをするかのような視線を私に向けてきた。

「……ふん、■■者か」

 私の右目の眼帯を見て、吐き捨てるように紡がれる差別用語。今更のように、視力を失った右目がずきずきと痛んだ。

 男は三枝さんに顔を向け、嘲りをこめた口調で言い放つ。

「■■者と負け犬同士傷の舐めあいか。いい気なもんだなぁ、葉留佳? こっちはお前のせいでまた事業の先行きに影が差して、苦労しているというのに」

「……ぃ……れ……」

 三枝さんは俯いて何やらぼそぼそと呟いている。その様子に異変を感じ、呼びかけようとしたその時。

 がばり、と顔を上げ。

「うるさいっ! 黙れぇっ! あんたなんかが古式さんのことを悪く言うなっ!」

 三枝さんが、吼えた。

「何さ! あんたたちなんか、馬鹿なしきたりに踊らされて、その上踊らされてることにも気付かない裸の王様のくせに! 古式さんがどれだけ辛い思いをしたかなんて知りもしないくせに! あんたに、あんたたちなんかに古式さんのことを悪く言う資格なんかあるもんかっ!」

 普段の陽気な三枝さんでもなく、先程までの弱々しく震えていた三枝さんでもなく。炎のような烈しさで怒りを露わにする三枝さん。その勢いに気圧されながらも、私の頭のどこか冷静な部分が、どれが三枝さんの本当の姿なのだろう、などと考えていた。

 三枝さんの勢いに気圧されたのは私だけではなかった。男もぐっと息を呑んだのが分かった。けれどそれも一瞬のこと。

「……このっ!」

 男が腕を振り上げる。先程のような平手ではなく、硬く握られた拳を。

 危ない。そう叫ぼうと口を開き、声を

 

「何をしているんですかっ!!」

 

 空気を震わせる怒声。思わずびくりと反応し、声のした方へと振り返る。振り返った先には長い髪を靡かせ、左腕にはクリムゾンレッドの腕章を付けた一人の女子生徒の姿。その腕章に白で書かれた“風紀委員”の文字。……風紀委員長の二木佳奈多さんだった。

「……ぉね、ちゃ……」

 三枝さんが何かを小さく呟いたが、良く聞き取れなかった。

「か、佳奈多?」

 男は明らかに狼狽している。この男、二木さんと面識があるのだろうか。

「叔父様、これは何の真似ですか?」

「佳奈多、ひ、久しぶりだな……」

「何の真似かと聞いているんです!」

 あからさまに話を逸らす男にぴしゃりと言い放つ。

「いや、たまたま近くに来たものだからついでにだな……」

「事業の先行きが不安なときにこんなところで油を売っているのですか。随分お暇なんですね。おまけにこんなに注目を集めて。少しは周りの状況も見てください」

 その言葉に周囲を窺ってみると、遠巻きにではあるものの野次馬が集まり始めていた。こちらを見て何やらひそひそと話しているのは遠目にでも分かる。

「一般学生の目もあります。本日のところはお引取りを」

「し、しかし……」

 尚も渋る男。

「私はここの風紀委員長です。この状況で見て見ぬふりはできません。叔父様の行動が三枝家、そして次期頭首である私の顔に泥を塗るものであることをご理解ください」

 一拍の間を置いた後、二木さんが再び言葉を発する。

「もしそれが出来ないのであれば、家の方に今回の出来事を報告させていただきます」

「なっ……!」

 男の表情が明らかに青ざめる。

「学園の敷地内への不法侵入、およびその中での暴行……三枝晶の二の舞になりたいのですか?」

 自分よりふたまわりは年上であろう相手に向かって、口の端に酷薄な笑みを浮かべ、嘲笑するかのように見据える二木さん。その横顔を見るだけで、背筋がぞっとした。

 

 ……何なんだ、この人は。

 何なんだ、この人たちは。

 彼らが何を言っているのか、私にはほとんど理解できなかった。ただ恐ろしいという感情ばかりが私の中で蠢いていた。

 

 やがて、男は苦虫を噛み潰したような表情でちっと舌打ちし、車の方へ向き直る。その際、こちらをじろりと睨みつけてきたが、負けじとこちらも睨み返してやった。男は再び舌打ちし、車に乗り込む。少しの間を置いて発車したそれが道路の先に消えた後、ようやくひとつため息をついた。

「あなた達もいつまでもこんなところで油売ってないで、さっさと寮に戻りなさい」

 素っ気無くそれだけ言ってくるりと背を向け、歩き出す二木さん。

「ま、待って!」

 その背に向かって三枝さんが声を上げる。

「……何?」

「あ、ぅ、その……」

 歩みを止め、こちらに背を向けたまま二木さんは問う。三枝さんはその背からは目を逸らし、とても言いにくそうに。

「その……ぁり、がと……」

 かすれる声で、そう口にした。二木さんは、一瞬だけ肩をぴくりと動かした後。

「ふん、礼を言われる筋合いなんて無いわ」

 鼻を鳴らし、無愛想に言い捨てる。

「それと、古式さん」

「はい、何でしょう」

「悪いわね、身内が迷惑をかけるみたいで」

「え……?」

 言葉の意味が分からず、問い返す私。しかし二木さんはそれ以上何も言わず、すたすたと歩き去って行った。

 

 

 

「少し、しみるかもしれませんよ?」

「いた……」

 野次馬の輪を掻き分け、寮に戻ってきた私たちは私の部屋で三枝さんの手当てをしていた。幸いにもルームメイトは不在だった。

 打たれた頬は大したことはなさそうだった。しばらく腫れは引かないだろうが、痕が残ったりはしないだろう。むしろ、私の言うままに大人しく従うその姿が普段の彼女らしくなくて、そちらの方が余程心配に思えた。

「何も、聞かないんだね……」

 俯いたままの三枝さんがか細い声で言う。

 正直に言って、事情が気になってはいる。聞きたい気持ちは強く存在する。だが、どこかそれを聞くのは恐ろしく、また安易に聞いていいような内容ではなさそうだと思えて、私はとりあえず手当てに集中していた。

 少し迷った後、口にする。

「聞きたい気持ちはあります。けれど三枝さんが言いたくないのなら聞きません」

 少しの間、三枝さんは口を噤み。躊躇いがちに口を開く。

「言うよ…… ううん、聞いて、欲しい……」

 そして、三枝さんはぽつぽつと語りだした。

 

 三枝の家に伝わる因習。一方の父親が犯罪を犯したこと。異父重複受精。その片割れが二木さんであること。品評会。自分が『ハズレ』であるとされたこと。それ以来、なにか悪いことがあればその度にお前のせいだと言いがかりをつけられ、暴力を振るわれてきたこと。今日の出来事も恐らくそうであるということ。あの大人は「三枝」の叔父であること。三枝さんを引き取り、今は実権を分家の二木家に奪われた三枝家の人間であること。だから三枝さんを昔から苦しめてきた人間の一人で、次期頭首である二木さんには頭が上がらないのだと言う。

 

 おぞましい、と感じた。

 あの、人ではなくモノを見るような目。存在自体を否定するようなあの目を思い出しただけでぞっとする。あれは、そんな因習の蔓延る一族の中で育まれてきたのだろうか。

 そして、この人は、幼い頃から周囲の全ての人にあのような視線を注がれてきたのだろうか。それを思うと、以前の自分が本当に愚かに思えた。この人の味わってきたものに比べれば、私の感じていた絶望などどれほどのものだと言うのだろう。

 私がそんなことを考えてる間も彼女の独白は続いていた。

 「古式さんが座ってた中庭のベンチ。私もこの学校に入ったばかりの頃は何をしていいかも分からなくて、日がな一日あのベンチに座ってたりしたんだ。そんなある日、いつものようにそうしていた私に声をかけてくれた人がいた。一緒に遊ばないか、って誘ってくれたの。その時の私は断っちゃったけど、今は仲間に入れてもらってて。今の私が楽しくいられるのはその人のお陰なんだと思う」

「ベンチに座ってる古式さんを見たとき、あの時の私もこんなだったのかな、って思った。話しかけてみて、何もすることがないからこうしてる、って言われたときは本当に驚いた。あの時の私も同じことを答えていたから。だから、力になりたいと思った。私に手を差し伸べてくれた人の真似がしたかった」

 けど、と彼女は弱々しく笑ってみせる。

「……けど、やっぱりダメだね、私。あの人みたいに格好良くなれないや。力になるどころかさっきは逆に助けられちゃったし、さ」

 そう言って俯き、深いため息を吐く。

 ……けれど、それは。

「違いますよ、三枝さん」

「……?」

 ゆるゆると視線を上げる三枝さん。そんな彼女に、言い聞かせるように、私は努めて優しい声を出す。

「あなたと話す前の私は、何もすることがなくて何もかもが苦しいだけで、居場所が無くて……自殺を考えたこともありました」

 はっと三枝さんが息を呑む。だが私は構わず言葉を続ける。

「けれど、私はそれを実行しなかった。それはあなたがいたからです、三枝さん」

 ぇ、と小さく三枝さんの声が聞こえた。

「あなたが私に話しかけてきたから。あなたが私に関わってきたから。私の空虚な毎日は変わりました。呆れるほどに騒がしく、自殺だなんて考えるのも馬鹿馬鹿しい、色鮮やかな毎日へと」

 最初は鬱陶しくも思った。だが、今にして思えば、私はずっと羨ましかったのだ。弾けるような笑顔で周囲に騒動を巻き起こし、校舎内を走り回っている彼女の姿が。

 

『趣味でも見つければいい』

 片目の視力を失い、何もすることがなくなった私に、宮沢さんはそう言ってくれた。

 けれど、私は宮沢さんの言葉を素直に受け入れることが出来なかった。その意見は、私のような持たざる者ではない、持つ者の傲慢な意見だと思った。もしあなたがその片腕を失い、剣道を断念せざるを得なくなったとしたら、あなたは同じことが言えるのか。そんなことを思ったりもした。……そんなもの、ただの僻みでしかないというのに。

 私は、自分が“持たざる者”だと思っていた。そして、宮沢さんや三枝さん、あの騒がしいグループの皆さんは“持つ者”だと考えていた。

 私より三枝さんの方が余程“持たざる者”であったというのに。

 ならば何故今、三枝さんには居場所があって、私には無いのか。考えてみればその答えは至極簡単だった。

 

 私の周囲は皆、弓道で結果を出すことを求めてきた。私はその期待に応えた。周囲は弓道に関することならあらゆるものを用意してくれた。質の良い弓。軽くて動きやすい特注の弓道着。広く静かな練習場。

 私はずっと、自分からは何もしようとしなかった。弓道をしてきたことは後悔していないが、それ以外の何かを自分の意思で求めたことなど一度も無かった。

 三枝さんはずっと自らの居場所を求めて足掻き続けてきた。弓道という居場所に甘え、それ以外の居場所など探そうともしなかった私とは違う。

 彼女は居場所を求め、差し出された手を取った。差し出された手の眩しさに僻み、その手を振り払った私とは違う。

 けれど。今の彼女の言葉が本当であるのなら。宮沢さんだけでなく、三枝さんも私に手を差し伸べてくれるというのなら。私は今度こそ、その手を取ろう。

 

「だから、あなたはこれ以上ないほど私の力になってくれていますよ」

「古式さん……」 

ぽつん、と私の名を呼ぶ三枝さんに、小さく首を振って、笑いかけて見せる。

「“みゆちん”でいいですよ……“葉留佳さん”」

 目の前の人は、私以上に“持たざる者”でありながら、自らの意思で足掻き、差し出された手を取り、居場所を見つけた。なら、私も一歩を踏み出そう。差し伸べられた手を取って。自分の意思で脚を動かして。

「葉留佳さん、今更ではあるんですけど……あなた達と一緒に、野球をさせてもらえませんか?」

 葉留佳さんはしばし、きょとんとした表情を見せていたが。

「うんっ! はるちんはみゆちんをリトルバスターズ新メンバーとして、大歓迎しちゃいますヨっ!」

 そう言って、私が羨んだ眩しい笑顔を向けてくれた。

 

 

 

 翌日。

「それじゃ先に話し通してくるから、待っててね」

 そう言って葉留佳さんは部室棟にある一室、彼らリトルバスターズが使用しているという部室に入っていった。私はそれをドアの前で待っている。

「……ふぅ」

 ため息をひとつ。緊張している。弓道の競技会に出たときでさえ、ここまで緊張することはなかった。やはり、私はどこか流されて弓道をしていたのだろう。自分の意思で何かをすることが、こんなにも緊張することだなんて知らなかった。

 部室の中からは、何やら賑やかな声が聞こえてくる。どうやら、他メンバーの皆さんが葉留佳さんに、新メンバーの人となりを尋ねているようだ。

『新メンバーとやらは可愛い女の子なのだろうなっ!?』

『いや怖いッスよ姉御…… まあ、可愛いというよりは美人系だけど、姉御のお眼鏡に適うレベルなのは保障しますヨ』

『ほう、それはおねーさん非常に楽しみだ。おっと失礼、涎が……』

『いや、変なことしないで下さいヨ?』

 ……一部、不穏当な会話もあったけれど。

 やがて、部室のドアが小さく開けられ、葉留佳さんがぴょこんと頭を出す。

「それじゃあ、かもーん、みゆちんっ!」

 そう声がかけられると共に、指がぱちんと鳴らされる。私は意を決して、部室のドアを潜った。

 視線が私に集まる。多分に興味の感じられる八組の視線。一際驚いたような宮沢さんの視線。そしてどこか得意気な葉留佳さんの視線。

 私は小さく息を吸い、そして口を開いた。

「はじめまして、古式みゆきと言います。これから、皆さんと一緒に野球をさせて欲しいと思います。どうかよろしくお願いします!」

 

 

 私は、あっさりと受け入れられた。特に神北さんや能美さんはとても親しみやすい笑顔で歓迎してくれた。

 来ヶ谷さんは少し私を見る目が怖かったけれど。

 宮沢さんは、茶番だ、とか何とかぶつぶつ呟いていたけれど。

 とにかく私は受け入れられ、これから私の運動能力を測るテストが行われることになった。まずは棗先輩のノックを受け、守備の力を見るという。

 屈んで靴紐を結びなおす私に、後ろから葉留佳さんが声をかけてきた。

「みゆちん、頑張ってね」

「はい、もちろんです」

 そう答えた後、葉留佳さんの耳元に口を寄せ。

「葉留佳さんも頑張ってくださいね……直枝さんとのこと」

 葉留佳さんは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後。

「ええぇぇぇぇぇっ!? 何でそのことをっ!?」

 腕をばたばたと振りながら大声を上げる。

「葉留佳さんに手を差し伸べてくれた人は、格好良かった、ですよね?」

「いやまあその、そうなんだけどさぁ……」

「安心してください、誰にも言いませんから」

 顔を真っ赤に染めてうろたえる葉留佳さんの様子が可笑しくて、くすりと笑いがこぼれる。

「うぅ、みゆちんってばそういうキャラだったっけ?」

 確かに、以前の私ならこういう事を言ったりはしなかったと思う。けれど、今の私がそうなのは、きっと。

「あなたの影響だと思いますよ、葉留佳さん」

 私はそう言って、不満そうな葉留佳さんを尻目に指定された守備ポジションにつく。

 

 何もすることなく、空虚な毎日を過ごしていた自分に手を差し伸べてくれた人。やがて自分の毎日を楽しいものにしてくれたその人に、憧れの感情を抱くというのはとても自然なことだと思う。

 ……だって、私もそうなのだから。

 

「それじゃあ準備はいいか、古式!」

「はい、大丈夫です、棗先輩!」

「みーゆちーんふぁーいとーぉっ!」

 後ろから、まだ言葉の上ずりを若干残したまま、それでも賑やかな声援を送ってくれる葉留佳さん。私は振り向いて、彼女にひとつ笑いかけた後、棗先輩の手の中にある白球を、左目でしっかりと見据えた。

 

 

 

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