「お久しぶりです、元気そうですね」

 面会室のパイプ椅子に腰掛けた女の第一声はそれだった。

 しかし俺から言わせれば、透明なガラス越しに見える女の顔の方こそ、以前よりやつれて見えた。

「こっちは元気にやってるさ。それより、そっちこそどうなんだ? 前より痩せたんじゃないか?」

「ええ、色々ありましたから…」

 俺が言わずもがななことを指摘すると、女は弱々しく笑ってみせる。その笑顔がいたたまれなくて、話題を少しだけずらした。

「ま、こうやって元気にしてるのもこの間の差し入れのお陰だ。助かったよ」

 先日、目の前の女から俺宛に着替えやタオルなどの日用品の差し入れが届けられていた。それらのおかげで随分助かったのは事実だ。

「…もっとも、服はちょっと小さかったけどな」

 最後に冗談めかして付け加える。

「ご、ごめんなさい、私、男の人の服のサイズとか分からなくて…」

 だが、女はこの程度の冗談でしゅんと落ち込んでしまう。

 まったく、相変わらず面倒臭え女だ。まぁ、その面倒臭え女に惚れちまった俺が馬鹿なわけだがな。ほんと、惚れた弱みってのは恐ろしいもんだ。

「冗談だっての、真に受けんなよ。…助かったよ、ありがとな」

「え…あ、はいっ」

 そう言って花がこぼれるような笑顔を浮かべる女。こんな状況にも関わらず、それだけでささやかな幸せを感じてしまう自分が滑稽だった。

「それにしても、よくお前らここに来れたな。家のやつらはどうしたんだ?」

「家の方はあの人がどうにかするから任せろと言ってくれました」

「そうか、あいつがな…」

 一人の男の姿を思い浮かべる。俺からすれば恋敵とも言える男だったが、あいつとは何かと気が合ったし、何より今となっては目の前の女を任せられる唯一の男だった。

「…家の人たちも、近所の人たちも、みんな酷いんです。誰もが口を揃えてあなたを悪く言って…」

「…まあ、そうだろうな」

「私には納得できません! どうして晶さんが逮捕されて、あんな風に言われなくちゃいけないんですか!」

 女は悲痛な声で叫んだ。

 

 

 

 俺と目の前の女は親戚筋にあたる。

 俺たちの一族にはある習わしがあった。

 一族の血を絶やさぬために、跡取りの娘には親戚から二人の男をあてがい、子を産ませるという狂った因習が。

 目の前の女はその跡取りの娘で、俺はそいつにあてがわれた男の一人だった。

 俺も、こいつも、そしてここにはいないもう一人の男も、その為に、その為だけに育てられてきた。

 一人の女に二人の男をあてがうという倫理を無視した行い、そのための道具と変わらないような育て方をされてきた。

 だが、そういう風に育てられても、それが間違っていることははっきりと理解していた。

 命じられた通りに二人でこいつを抱き、そしてその結果、新たな命が宿ったと聞いたとき、恐ろしくなった。

 こいつを抱くために育てられた俺だったが、それとは関係なく、自身の意志で俺はこいつを愛していた。

 それはもう一人の男も同様だった。

 俺たちは恐れた。やがて産まれてくるであろう俺たちの子供が、俺たちと同じように狂った因習に縛られ、振り回され、苦しめられることを。

 大切だった。愛する女も、その子供も。愛する女をこれ以上あの家に置いておきたくなかったし、その子供をあの家に好き勝手させたくもなかった。

 そのための方法として俺が思いついたのは、犯罪行為だった。

 

 本家で親族会議が行われる日、その場に飛び込んだ俺は、その出席者たちを片っ端から殴り倒した。

 家に伝わる習わしも、それを疑うことも無く信じている奴らも、それを俺達に押し付けてくる奴らも、そいつらがやたらと気にしていた世間体も。何もかもをぶっ壊してやりたかった。

 狂ったように暴れ、親族連中を殴り飛ばしていた俺は、やがて通報を受けた警察によって取り押さえられた。

 罪状は不法侵入及び傷害。

 そうして逮捕された俺は今、留置所にて日々を過ごしていた。

 

 

 

「どうして晶さんがこんなところにいなくちゃならないんですか! 晶さんは何も悪くなんかないのに!」

「いや、俺は確かに罪を犯した。悪くないなんてことはないさ」

 そう言って諫めようとしても、聞かない。

「けど! それだって私たちのため…」

「やめろっ!」

 大声を上げて言葉を遮る。余程のことが無ければ口を出してくることは無いが、面会室には看守が同行している。看守も見ている前で、下手なことは言えない。ちらりと看守を目で示した。

「あ…ご、ごめんなさい…でも私、晶さんが悪し様に言われるのが辛くて…」

 どうやら気付いてくれたらしく、一気に勢いがしぼんだ。

「まあ、そう言ってくれるのは嬉しいけどな…けど、人前ではそんなこと言うんじゃないぞ」

 こいつは、世間知らずの馬鹿な女だ。罪を犯した俺を世間が、そして世間体にこだわるあの家の連中が許すはずもない。俺をかばうような発言がどれだけ自分の首を絞めることになるか、こいつはまるでわかっちゃいない。

「…それに、あんまり大きい声出すなよ。そいつらが起きちまうだろ」

「あ…」

 俺が胸元を指差すと、それに合わせて視線を落とすあいつ。その胸には、小さな、産まれたての赤ん坊二人が抱かれ、すやすやと眠っていた。

 

 検閲こそ入るものの、留置所でも手紙のやり取りは自由だ。既に手紙で知らされてはいた。俺達三人の間に、異父重複双子の娘たちが産まれた事を。

 俺はその娘たちを一目見たいと願っていた。文字通り、娘達の姿を夢にまで見ていた。そして、今まさにその夢は叶えられていた。

 娘たちは本当に小さかった。生後間もない二人を連れてここに来るというのは大変だったろう。まして娘たちは次なる跡取り、本家の目もあるだろうから尚更だった。それを押してここへ連れてきてくれたこいつと、そのための手回しをしてくれたあいつには感謝してもし切れない。

「…二人ともお前似だな」

「あの人もそう言ってました」

 ガラス越しに赤ん坊の顔を覗き込んでの最初の感想はそれだった。二つ並んだ寝顔はまさに瓜二つで、そこには母親の面影が色濃く浮かんでいた。まだ赤ん坊だからというのもあるだろうが、どちらにも父親の面影は全く見えなかった。

 …だからこそ、どっちがどっちの子かなんてもめているんだろうがな。

「ところで、名前はなんてつけたんだ?」

 何の気なしに放った俺の問いに、真剣な表情になってこちらを見てきた。

「それなんですが、晶さん。この二人の名前を、あなたがつけて貰えませんか?」

「なに…?」

 意外な言葉に呆気に取られる俺。そんな俺にまっすぐな目を向けたまま、言葉を続けてきた。

「あの人と二人で話し合って決めたんです。せめて、この子たちの名前だけはあなたに決めてもらおうって。この子たちは戸籍上、私とあの人の間に産まれた双子になっているけど、あなたの子でもあるんです。せめてそういう部分だけでも、あなたとこの子たちに繋がっていてほしいんです」

 長い付き合いでも、今まで見たことないような真剣な表情でこちらを見据え、言葉を紡ぐ。

「…責任重大だな」

「ええ、責任重大です。だってあなたは、この子たちの父親なんですから」

 そうきっぱりと言われては、俺に断る術など無かった。

「…分かったよ。少し考えてみる。そいつらの顔を良く見せてくれ」

「はい…どうぞ」

 パイプ椅子をこちらに寄せ、ガラスの前すれすれまでに子供たちを寄せてくる。俺は名前を考えながら、はっきりと見えるようになった娘たちの顔に見入った。

 娘たちの顔が良く見えるようになって、先程より強く思った。こいつらは本当に母親似だと。

 願った。母親に似てほしいと。容姿だけでなく性格も似てほしかった。俺の愛する女は世間知らずの馬鹿な女だが、それでも深い慈しみを持ち、その笑顔で俺を幸せにしてくれる、素晴らしい女だ。娘たちにもそんな風に育ってほしいと願った。

 またその一方で願った。母親に似てほしくないと。俺の愛する女は産まれたときから家の掟に縛られ、謂れのない苦しみを強いられてきた。以前見た、三人でのコトが終わった後に間違いに気付き、泣きじゃくる愛する女の姿。それが今更のように脳裏に浮かんだ。あんな泣き方を娘たちにはしてほしくなかった。娘たちはあんな風にならないことを願った。

 願う。娘たちは、あの家に縛られること無く、自由に生きてほしい。二人で手を取り合って自由に、何者にも縛られること無く…

 

 ――――へ。

 

「…はるかと、かなただ」

「え?」

 唐突に口を開いた俺に、驚いた顔で聞き返してくる。

「だから、そいつらの名前だ。片方の名前は、はるか。そしてもう片方の名前が、かなた。二人で、はるかかなただ」

 母親はしばしきょとんとした顔を浮かべていたが、やがて穏やかな笑みを浮かべ、胸の中の二人の娘に笑いかける。

「いい名前ね。はるか、かなた」

 そう言って、あやすように二人の体を揺する。と、一方の娘がゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。その小さな手のひらは俺の目前、俺たちの間を隔てるガラスに阻まれて止まった。

「ふふっ、この子も気に入ってくれたみたいですよ。本当はこの子の方が妹なのだけど、先に気に入ってくれたからこの子をはるかにしましょうか」

 普通に考えれば、それが別に名前を気に入ったからそうしたわけではないと分かる。この小さな赤ん坊が言葉の意味を理解できるはずが無い。手をこちらに伸ばしたのだって偶然に決まってる。目だってまだ開いていないのだから。

 だが、思いたかった。この娘が俺のつけた名前を気に入ってくれたのだと。俺を親として認めてくれているのだと。

「ああ…ありがとうな、はるか」

 そう言って、ガラス越しに俺の無骨な手をはるかの小さな手に重ねる。ガラスの感触はただ硬く冷たいばかりで、はるかの手の柔らかさも温かさも伝えてはくれなかった。

 すやすやと眠り続けている二つの小さな命。

 目の前にいる愛する女と、その胸に抱かれる、何より大切な二つの宝物。

 俺との間を隔てる無機質なガラスの壁が疎ましかった。間にあるのは、薄っぺらなガラス板一枚。俺の愛するものは確かに目の前にあるはずなのに、触れることができない。近いようでいて、限りなく遠かった。

 そして、今更のように気付いた。この遠さこそが罪を犯してしまった俺と、無垢な命との距離だった。

 俺の手は汚れている。この汚れた手で、娘たちには触れられない。触れてはいけない。

 何よりも大切な宝物そのものである娘たちを、この手で抱くことはできない。

 手と手の間は一センチも開いていなくとも、俺と娘たちとの距離は果てしなく遠い。

 …まさに、はるかかなた。

 そこまで考えて名付けたわけではなかった。だが、言いえて妙とはこのことか。俺にとってはるか、かなたという娘たちはまさに遥か彼方の存在だったのだ。

 頭の一部が、妙に冷えていくのを感じた。

 

「なあ」

 俺は、つとめて冷静に母親に話しかける。

「お前…もう、ここには来るなよ」

「え…」

 瞳が驚きに見開かれる。それにも構わず、俺は言葉を続ける。

「もしこんなことがバレでもしたら、家の連中が何を言い出すか分からねえ。こんな危ない橋を渡るのは今回限りだ」

 そうなのだ。生後間もない跡取りの娘たち。しかも異父重複双子でどっちがどっちの子か分からない娘たちを“一族の面汚し”であるところの俺に会わせるなんて、奴らからすればとんでもないことだ。

 知られてしまえば、最悪、娘たちを取り上げられてしまうかも知れない。それだけは避けなければならなかった。

「そんな…晶さんは、この子たちに会いたくないんですか?」

「そんな訳ねえだろ…けど、それ以上に俺と会うのは危険なんだよ。お前も、そいつらも。分かるだろ?」

 こいつだって、そんなことは分かっているはずなんだ。けれど、それでもなお弱々しくも言いつのる。

「…それは、分かります。だけど、この子たちはあなたの子でもあって、そして私はあなたの…」

 言葉の途中で、がたりと音を立ててパイプ椅子から立ち上がる。その際にちらりと見えた時計から判断すると、もうそろそろ規定の面会時間、二十分が過ぎようとしていた。

 俺は冷酷に言い捨てる。

「いいか、俺は犯罪者だ。犯罪者なんて近づく奴を不幸にするだけだ。犯罪者の親なんていない方がいいんだ」

 そう、その方がいいのだ。俺みたいな犯罪者は親であってはいけないのだ。今日、娘たちに名前をつけたのは降ってわいた幸運と思い、これ以上娘たちには接しない方がいいのだ。

「そんな…晶さん…っ」

 顔を歪ませ涙をぽろぽろとこぼすあいつに背を向ける。

「お前はそいつらの母親なんだ、自分の娘を幸せにすることだけ考えてろ。もう二度とここには来るな…看守、面会を終わります」

 看守に面会の終わりを告げ、足を踏み出した。

「ま、待ってください! 晶さん、晶さぁん…っ!」

 背後から泣き声で呼ばれる俺の名と、面会時間の終了を事務的に告げる看守の声が聞こえてきたが、俺は振り返ることなく面会室を後にする。奥歯がぎりりと音を立てた。

 

 

 

 居房に戻り腰を下ろし、人心地ついた。

 ふと、あいつの叫んでいた一つの言葉が思い起こされた。

『晶さんは何も悪くなんかないのに!』

 それは間違いだ。いくらか頭の冷めた今なら分かる。いかなる事情があろうとも、俺のしたことは間違いなく犯罪だ。悪くないはずがない。

 そして、何より…俺はそれを、心のどこかで楽しんでいたのだ。

 

 あの夜、親族会議が開かれていた広間。そこでの議題は、あいつの身ごもった子の教育方針だった。俺はその内容を障子越しに聞いていた。

 あいつらは、生まれてくるであろう子を人間としてなど見てはいなかった。ただ、道具としてしか見ていなかった。

 育て上げるためではなく、作り上げるため。そんな無機質で無情で無感動な言葉に、はらわたが煮えくり返る思いだった。

 我慢しきれず、広間に飛び込んだ。全員の視線が俺に集まる。構わず、先程から一際下卑た笑い声を上げていた叔父の一人の顔に拳を叩き込んだ。

 叔父の頬骨に俺の拳の骨が当たる感触。その感触に、俺はどこか胸のすく思いを感じた。

 殴られた叔父は、あっさりと畳に倒れ伏した。直後に上がる叫び。耳障りなその叫び声でさえ、その時の俺には心地よかった。

 普段神サマがどうだこうだと言い、偉そうにふんぞり返り、理不尽な要求を突きつけてくる連中。そいつらが慌てふためく様が可笑しくて仕方なかった。

 俺は笑い声を上げていた。手近の親族を一人、また一人と殴り倒すたび、笑い声は大きくなっていった。今まで積もりに積もった、この家に対する不満や鬱憤、怨みが俺の体をつき動かし、拳を振るうたびに晴れていくのが分かった。

 奴らもただ黙って殴られているわけではなかった。一族には武術を学んだ人間も多く、俺も何度も拳や蹴りを貰った。だが、殴られようが蹴られようが、痛みは感じなかった。むしろ向かって来てくれる分だけ好都合だった。向かってくる順番に獲物にしていたら、そのうちにそいつらも青ざめた表情になって逃げ出し、そっちの方が厄介だった。

 やがて、俺は踏み込んできた警察官に取り押さえられた。広間には二十を越える人間が横たわっており、その多くが鼻や口から血を流していた。

 俺を取り押さえている警察官が問う。なんのためにこんなことをしたのか、と。

 俺は、愛する女とその子供のためだと答え――ることが出来なかった。

 俺はさっきまで、何を考えていた?

 ただ、親戚連中を叩き伏せることだけを考えていた。

 途中から、愛する女とその子のことは頭の中から消え去っていた。

 最初は、あいつらのためを思ってしたことだったはずなのに、いつしか手段が目的に変わっていた。

 

 結局俺は、あいつらを理由にして鬱憤晴らしをしていただけだった。

 そんな俺に、何も悪くないなどと言ってもらえる資格は無い。

 そんな俺が、無垢な命をこの手に抱く資格など、ありはしないのだ。

「ふぅ…」 

 ため息を一つついて、高い位置にある窓から空を見上げた。よく空は自由の象徴などと言われるが、鉄格子で四角く区切られた上に金網のかかったそれは、ちっとも自由を感じさせてはくれなかった。

 産まれたばかりの娘達を思う。

 母の胸に抱かれ、穏やかな寝顔を見せていた、二人の赤ん坊。 あの狂った家に縛られて生きてきた俺がようやく得ることができた、かけがえのない宝物。

 けれど、決してこの手には抱けない、抱いてはいけない宝物。

 俺は自由にはなれない。以前は家に縛られていたから、そして今はそれだけのことをしたのだから。俺が自由になれないのは仕方のないことだ。

 だが、せめて、と願う。

 せめて娘たちだけはあの家に縛られることなく、自由であってほしい。二人手を取り合って、自由にどこまでも――はるかかなたへ。

 

 

 


※三枝晶が犯罪を犯したことは本編で語られていますが、具体的に何をしたかについては明言されていません。

 色々と噂は立っていたようですが、明らかに尾ひれの付いているそれらは無視してばら撒かれた新聞記事のみ信じると、彼の罪状は不法侵入と傷害だけだそうです。

 現在日本の法律では、不法侵入は懲役三年以下、傷害は懲役十五年以下と定められ、またその際に凶器などを用いると別の罪状が追加されます。

 三枝晶が罪を犯したのが娘たちが産まれる少し前、出所が本編だとすると、彼にはおよそ十七から十八年の懲役が科せられたことになります。

 これは罪状からすると上限に近い、とても重い判決を下されたという事です。 

 なので、本作では、(凶器は使えないので素手で)極めて多くの人数を殴り倒し、それが「極めて悪質な犯行」と捉えられ、厳しい判決が下された、そういう設定を採用しました。


 

 

 

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