始まりは、野球の練習の休憩中、鈴さんがかけてきた言葉だった。
「みお」
「なんでしょう」
「みおは、笑わないのか?」
「……はい?」
唐突な言葉に面食らう。笑う? 突然何を言い出すのだろうか。意図が掴めず困惑するわたしに、彼女は言葉を続ける。
「みおだって楽しんでるのはわかる。ときどき笑ってるのも知ってる。でも、もっと笑えないか? さっきのみんなみたいに」
その言葉でようやく合点がいった。先ほどの練習中のことだ。 『ははっ! すげえな、理樹! 五十七コンボとは驚いたぜ!』そう言ってやんちゃ坊主のような笑顔を浮かべる恭介さんを筆頭に、誰もが笑顔ではしゃいだり、直枝さんを褒めたりしていた。
けれど彼女の発言から考えると、わたしは、わたしだけは、笑っていなかったのだろう。わたしも感心してはいたのだが……それが表情に出てはいなかったらしい。
彼女はさらに言葉を続ける。
「こまりちゃんが言ってた。笑うとちょっとだけ幸せになれるって。誰かを幸せにすると自分も幸せになれるって。だったら、みおが笑えばあたしは幸せになれる。そしたらみおももっと幸せになれる」
ちらりと神北さんの方を見やる。何がそんなに楽しいのか、笑顔で鼻歌を歌っている。実に彼女らしい言葉だと思う。
「あたしはみおにもっと笑ってほしいんだ」
その、取りようによってはとても恥ずかしい言葉にどう答えたものかと思案していると、横から三枝さんが茶化してきた。
「おお、なんか愛の告白みたいな台詞ですネ」
三枝さんの言葉にびくんと反応し、一歩後ずさる鈴さん。その仕草は敵を警戒する猫のようだったが、その表情はやはり人間のものだ。自分の言葉の恥ずかしさに気付いたのか、僅かに顔が赤らんでいる。
「あ、あい!? んなわけあるか、ぼけーっ!」
「いいじゃんいいじゃん。照れなくてもさ。愛ってのとはちょっと違うけど、鈴ちゃんだってみおちんのこと好きっしょ?」
「う……それは……」
「それとも実はみおちんのこと嫌いだったり? そんなことないよね?」
「そんなわけないだろっ! あ、あたしは、みおのことが……す、好き、だ」
即座に否定したものの、途中から照れが入ったのか、こちらにちらちらと視線を向けながら言葉を紡ぐ。悪い気はしないのだが、なんとも返答に困ることを言ってくれる人だ。
返事に窮していると、またしても三枝さんが茶々を入れる。
「や、なんか見てるこっちまで恥ずかしくなってしまいますヨ」
「うっさい! はるかが言わせたんだろうがっ!」
「やはは。もー鈴ちゃんってば可愛いなぁ」
「かわいくなんかないわ、ぼけーっ! 笑うなっ!」
「あはははははっ!」
「ふかーっ!」
顔を真っ赤にして威嚇する鈴さんと、それを見て楽しそうに笑う三枝さん。
なるほど、鈴さんの言いたいことも少し分かる。感情を率直に表情に出す二人のやりとりは、見ていて清々しくもあった。喜んでいるのか悲しんでいるのかも分からないような微妙な表情では、こうはいかないだろう。
けれど、だからと言ってわたしが目の前の二人のように感情を表情に出すというのは……随分と難しい話だ。
そんなことを考えていると、三枝さんがこちらに向き直り、両手を伸ばし……わたしの頬をつまんできた。
「ほらほら、そんな難しい顔してないで。鈴ちゃんも言ったじゃん。みおちんも笑って笑ってー」
「……ひゃめてくだふぁい」
やめてください。そう言ったつもりだったが、頬が引っ張られているのでうまく発音できない。三枝さんは(痛くない程度にではあるが)わたしの頬をさらに引っ張り、上へ下へとやっている。もっとも相手が三枝さんではうまく発音できたところで聞き入れるとも思えなかったが。
「ぷ、ぷふっ、みおちんってば変な顔ー! あははははっ!」
失礼な。誰のせいで変な顔になっていると思っているのだろう。とりあえず、憎ったらしいほどの笑顔で笑い転げる三枝さんは。
「……かたじけのうござる」
すぱーーーんっ!
……新聞紙ブレードの錆にしておいた。
「やってしまいました……」
寮の自室に帰ってきたわたしは、ため息と共に言葉を吐いた。今日の野球の練習の後、商店街に赴き、書店で一冊の本を買ってきた。胸に抱く紙袋の中の一冊の本。そのタイトルは『すぐ始められる表情筋トレーニング』。
余談だが、この本のタイトルを見たとき、『筋トレ』の部分で何故か、異様な動きで腕を振る巨大な肉塊が頭に浮かんだ。が、あまりにも美しくなかったのですぐにかぶりを振り、思考から追い出しておいた。
表情筋。
顔の目や口、鼻などを動かす筋肉。
人間の顔には三十種類以上の筋肉があり、それらが相互に作用することによって複雑な表情を作り出している。
身体の筋肉は骨と骨をつないでいるが、顔の筋肉は骨と皮膚につながっているため、細かな表情まで滑らかに作り出すことができる。
表情筋は通常の生活では全体の三割ほどしか使っておらず、加齢、あるいは普段から無表情で表情筋を使わずにいることなどによって衰え、うまく表情を作れなくなる。
また、愛想笑いなどの不自然な表情をするのも良くない。それは表情筋を疲れさせ、やはり表情筋が衰える原因となる。 そして、衰えた表情筋は今まで保っていた顔のハリなどのバランスを崩しシワやたるみの原因にもなる。
そこで、この表情筋トレーニングを一日数分行うことにより、表情豊かな美顔を作ることができる。
――以上、序論として書かれていた内容のわたしなりの要約。
「別に鈴さんや三枝さんに感化されたわけではありません。これはあくまでも美容のためです」
部屋には自分ひとりだというのに、我ながら誰に言っているのだろうか。考えても答えは出ない。考えるのはやめて、鏡に向かい、本の内容に沿って表情筋トレーニングを始めた。
表情筋トレーニングメニュー、その@。
顔全体を縦に思い切り引き伸ばし、今度はクシャクシャに縮める。これを繰り返す。
むにゅり。
「……美しくないです」
思わず口にしてしまった自分の言葉に落ち込む。しかし実際、美しくないとしか言いようのない顔だった。本に書かれていた一行の注意書きが頭を過ぎる。
『くれぐれも、人前ではやらないで下さい。頭がおかしいと思われること間違いなし。』
まったくもってその通りだ。こんな顔、とても人には見せられない。きょろきょろと室内を見回し、改めて一人であることを確認した後、ドアの鍵をかけた。その上で表情筋トレーニングを再開する。ええと、次は……。
この後、トレーニングメニューの数だけわたしは美しくないと口にした。
色々と思うところはあるが、何とかひと通り表情筋トレーニングのメニューをやり終えた。本には最後のメニューの後、こう書かれていた。『ひと通り終わったら、鏡に向かってにっこりと笑いかけてみましょう。ほぐれた表情筋のおかげで、きっと素敵な笑顔ができます。』
なるほど、これなら安心だ。やってみよう。にっこり……にっこり……。
ニタリ。
「……失敗しました」
はっきり言って怖かった。お前はどこの悪の女帝か、と。
ここに来てようやく気付いた。表情を作るために表情筋トレーニングをするのはいいが、それだけでは足りないと。そもそも表情を作ること自体、わたしは苦手だったのだと。
思い返してみれば、わたしは昔から表情を作るのが苦手だった。小学生の頃のクラス写真撮影で写真屋さんに『そこの子、もっと笑って』と言われたことも一度や二度ではない。わたしはどうにか笑おうとするもののうまくいかず……苦笑する写真屋さんが『しょうがない』と言って切り上げるのがいつものパターンだった。現像された写真の中で、当然わたしは笑ってなどいなかった。
中学校での三年間では、わたしに友人といえるような相手はほとんどいなかった。僅かな友人とも、そこまで親密でもなかった。今ではもう連絡も取っていないくらいだ。本が一番の友達とでも言うべき状態だった。本を読みながら笑ったり泣いたりするのは傍から見ればただの変人だ……と思ったが、現在身近に漫画を読みながら少年のように笑い、悲しみ、泣く人間がいることを思い出した。
……まあ、あの人は変人か変人じゃないかと言われれば間違いなく変人だし。
とにかく、友人もろくに居らず本ばかり読んでいた中学時代のわたしは、表情を作ることなどなかった。それはこの学校に入ってからの一年と少し、リトルバスターズの皆さんと知り合うまででも同じことだった。
鈴さんによると、今のわたしはいくらかは笑えているらしい。以前は意識して笑おうとしても笑えなかったのに、だ。きっとそれは、リトルバスターズの皆さんのおかげなのだろう。だったら、鈴さんや三枝さんの期待に応えたいと思う。そして、それ以上に、わたし自身の意志で、もっと笑えるようになりたいと思う。そうすれば、あの眩しい笑顔の人たちに一歩近づける気がする。
けれどそれはやはり難しい。そもそも、わたしはわたしの笑顔を知らない。写真に写った自分の笑顔も、鏡に映った自分の笑顔も見たことがない。ある程度は笑えていても、それは無意識のものなので、その時自分がどんな顔で笑っていたか分からないのだ。本来なら、その無意識の笑顔こそが正しいもので、意識して笑顔を作ろうという事自体間違っているのだろう。けれど、それでも笑えないよりはずっといいはずだ。
とにかく、わたしはわたしの笑顔を知らない。笑いたくとも、どう笑えばいいのか分からない。これではいくら表情筋トレーニングをしても意味がない。どこぞの筋肉馬鹿が唱える筋肉万能論は大いなる間違いなのだ。
「……はあ……」
こつん、と鏡に額を当てて、ため息をつく。息のかかった部分が白く曇る。曇った鏡に映るわたしの顔は、わたしと似た顔の、けれどわたしではない誰かの顔のように見えた。
「……っ!」
がばりと顔を上げる。気付いた。わたしはわたしの笑顔を知らないが、わたしと同じ顔で作られる笑顔を知っていることに。
全ての始まりもこうだった。鏡と向き合うわたし。その中から話しかけてきたあの子。友達もほとんど居らず、両親も忙しかったわたしにとって、唯一と言える笑い合えた相手。美鳥。
すっと目を閉じる。瞼の裏にあの子の笑顔をイメージする。快活な笑顔、悪戯っぽい笑顔、どこか寂しそうな笑顔……。
自分の笑顔は一切イメージできなかったくせに、あの子の笑顔ならこんな簡単に思い浮かべることができた。
「あなたの笑顔、貸してくださいね、美鳥」
言ってから、そっと目を開けた。瞼を開くと目に映る鏡。その中にはわたしの顔、いや、美鳥の顔。ふっ、と自然に表情筋が緩んだ。
「うん、いい笑顔だよ、美魚っ」
ふと、そんな声が聞こえた気がした。
鏡の中の美鳥は、穏やかな笑みで笑いかけてくれていた。
その日以来、わたしは以前より笑うことが増えたらしい。あの子を思えば、自然と笑顔になることができた。最初は皆さん驚きはしていたが、概ね好評だった。そんなある日の一幕。
「みおちんって最近よく笑うようになったよねー」
「そうだな」
「うむ。おねーさんとしては非常に好ましい」
「笑うことは素敵なことなんだよ〜」
「はいっ! 西園さんの笑顔、とっても素敵なのですっ」
離れたところで、リトルバスターズの皆さんが談笑している。普段なら話の輪に加わるところだが、今は話題が話題なので入っていくのが気恥ずかしい。手元の小説に夢中なふりをする。ただし、耳はそちらに傾けて。その耳に、やや潜めた三枝さんの声が届いた。
「けどさ、みおちんの笑顔ってたっまーにえっちくない?」
「えろいな」
「うむ、エロい」
「みおちゃん、えっちだよぉ〜」
「わふー…… えろいのです……」
ぴしり。
わたしの体は固まった。本を掴む両手に力が篭もる。
わたしの笑顔が……エロい?
心当たりは……あった。美鳥は時折、そういう笑顔も見せていた。
けれど、いくらあの子のを参考にしているとは言え、結局表情を作っているのはわたしで、わたしはそんなつもりではなかったはずなのに……。
ぽん、と肩に大きな手が置かれた。見上げると、いつになく神妙な顔をした井ノ原さんが立っていた。どこか迷いを感じさせる様子で、彼は口を開き、言葉を紡いだ。
「なあ、西園……お前の表情筋、何かに憑かれてないか?」