授業が終わると同時、勢い良く席を立ち、教室を飛び出て、E組の教室へ向けて駆け出す。少し前までは大嫌いだった、でも今は好きになりつつある声が廊下を走るなと後ろから聞こえるけど、聞いてなんかやらない。
傍から見れば以前から変わることの無い光景なんだろうけど、以前と今とでは意味が全然違う。
以前はただ逃げていただけだった。“あいつ”からも、居場所の無い教室からも。でも今は違う。姉のことも今ではけっこう好きだし、教室にも居場所が無いとは感じない。
けど、それでもE組の教室は自分の教室よりずっと楽しかった。そこにはあの素敵な人たちがいるから。姉のことは好きになったけど、みんなのことも以前より更に好きになっていたから。だから結局、自分の組よりE組の方が好きなことに変わりはなかった。
E組にはみんながいる。理樹くんが、姉御が、こまりんが、鈴ちゃんが、みおちんが、真人くんが、謙吾くんが、(この人は学年が違うはずなんだけど)恭介さんが。そして何より……。
がらり、と勢い良く扉を開け放つ。扉のすぐそばにいた、見覚えのあるちっちゃい影がびくりと驚いたようにこっちに振り向く。私は走ってきた勢いそのままにそれに飛びついた。
「あははははおもちゃげっとー!」
「わふっ!? げっとされましたっ!?」
驚きに見開かれたまん丸な目で見上げてくる、私の腕の中に収まるちっちゃい体の持ち主。それは私のお気に入りのおもちゃっていうかわんこ、クド公だった。
わんこと私
「ふっふっふ、わんこは相変わらずのわんこっぷりじゃのう。うりうりー」
そう言って、抱き上げたクド公を左右にぶらぶらと振り子のように揺らす。クド公は私の腕の中でわふわふ言っている。
「いやそれそのままだし、思いっきり犬扱いだね……」
「だってクド公ってばほんとにわんこなんだもん。ほらほら見て見てー」
律儀にも突っ込んでくるその理樹くんに答え、クド公を下ろし、顔の前にびしりと指を突きつけて、言った。
「クド公、お座り!」
「わふっ!」
クド公はぴくりと反応し、床に手を突き、ちょこんと腰を落とす。それを見て取って、私は更に命令を出す。
「お手!」
「わふっ!」
「おかわり!」
「わふっ!」
クド公の前に伸ばした左手。その上に右手、左手と順に置くクド公。私はその間に相手右手でスカートのポケットを漁る。そこから取り出したるはクド公の好物、マルテン堂の乾燥昆布(お徳用)。
「取って来い!」
乾燥昆布をクド公の真上あたりにふわりと投げ上げる。本当ならもっと勢い良く投げるんだけど、さすがに教室だし。
「わふっ!」
クド公はジャンプし、空中で乾燥昆布を咥え取って見せた。
「待て!」
着地したクド公に号令を発した後、私は後ろに下がり、距離を取る。乾燥昆布を咥えたまま、切なそうな物欲しそうな目でこちらを見つめてくるクド公。……あ、涎垂れてる。
5メートル位の距離を取ったところで次の言葉を発した。
「食べてよし!」
「わぅっ!」
待ちかねたと言わんばかりに小さい口ではむはむと乾燥昆布を齧りだすクド公。ぱたぱたと振られる尻尾が見える気がする。
その間に肩幅ぐらいに足を開く。やがてクド公が乾燥昆布を食べ終わったのを見計らって、次の指示を出した。
「クド公、来い!」
「わふっ!」
ぱたぱたとこちらに走り寄ってくるクド公。そこに更に指示を飛ばす。
「潜れ!」
「わふっ!」
開いた私の足を下を四つんばいになって潜り抜けるクド公。通り抜けたところで、最後の命令を下した。
「死んだふり!」
「わ、ふぅ……っ!」
微妙にそれっぽいうめき声を上げて、その場にこてんと倒れこむ。私はそれを確認したあと、理樹くんに向き直り、えへんと胸を張って言った。
「……とまあこの様に、芸をしっかりと仕込んでるわけですヨっ!」
「……いやまあ」
呆れたように言う理樹くん。なんだか申し訳なさそうな目をクド公に向けていた。
「うっわ何理樹くん、その『やっぱり葉留佳さんをクドのルームメイトに推薦したのは失敗だったかなあ、ごめんよクド』とでも言いたげな目は」
「葉留佳さん、真人みたいな言いがかりだね……」
とは言え、クド公はこのままほっとくといつまでも死んだふりを続ける。さすがにそれはかわいそうなので、屈みこんでもういいよと声をかけ、上半身を起こしてやる。ついでにさっき垂らしてた涎もハンカチで拭いてやる。ぐしぐし。
むくりと起き上がったクド公は、一拍の間を置いて声を上げた。
「また条件反射で従ってしまいましたっ!?」
「とまあこの通り、クド公は条件反射で従ってしまうわけですヨ。あれだね、ペトロパブロフスク・カムチャッキーの犬ってやつだね」
「それを言うならパブロフの犬ね」
「やはは、そだっけ? まあとにかくそんな感じで。クド公はわんこだもんねー、それはもう本能レベルで」
後ろからクド公の首に腕を回し、喉の辺りをわしゃわしゃと撫でてやる。最初は複雑そうな表情を浮かべていたクド公だったけど、そのうち気持ち良さそうに頤を反らしだした。
「最初は英語でやろうとしてたんだけどねー、クド公ってばそれだと間違えちゃうもんだから」
Sit!(お座り)って言われてお手をしたりとか。
「わふー……やっぱり英語は苦手なのです……」
「あはは、気にすることないってクド公、私なんて英語だけじゃなく勉強全般苦手だからねー」
笑って言ってしょんぼりしてるクド公の頭のてっぺんをぐりぐりと撫でる。
「いやそれフォローになってないっていうか笑って言うところじゃないでしょそこは……」
理樹くんのツッコミが虚しく響いた。
「ところでクドリャフカ君」
「はい、何でしょう来ヶ谷さん」
私たちがそんなやり取りをしている横で、さっきまでクド公に萌えていた姉御がいつの間にか復活してクド公に話しかけてきた。
「今日の葉留佳君のぱんつは何色だったかね」
「ピンクのしましまでしたっ」
「ってクド公ぉーっ!?」
「もう、クド公ってばなんであんな人前でぱんつが何色かなんて答えちゃうかな」
その夜、寮の自室で私はクド公に文句を言っていた。
いやそりゃ足の下潜ったらぱんつ見えるだろうし、クド公の性格を考えればそれこそ条件反射で答えてしまっただけで、悪気は無かったんだろうけど。あんな人前でぱんつが何かなんて喋られたらめっちゃ恥ずかしいし。実際理樹くんなんか顔赤くして目逸らしてたし。
「わふー……すみませんです……」
そう言ってしょぼくれるクド公。もしクド公が本物の犬だったら、きっと今耳を伏せてくーんとかきゅーんとか鳴きながらしょんぼりと落ち込んじゃってるんだろうなあと思う。
……なんて言うか、ずるい。そんな表情されたらなんだか苛めてるみたいな気がしてしまって、それ以上言えなくなってしまう。
クド公の頭の上に手を置いてぽんぽんと撫でる。不安そうな上目遣いでこっちを見てくるクド公。
まったく、何でこういちいち人の琴線に触れる仕草をするのかねこのぷりちーわんこは。姉御だったらきっと今頃鼻血噴いてるところだ。
「罰としてクド公は今夜一晩抱き枕の刑ね」
そう言って、にかっと笑って見せる。クド公はしばらくの間じっとこっちを見つめてきた後。
「はいっ。了解なのですっ」
言って、ぱっと屈託の無い笑顔を見せてくる。
クド公、私は罰としてって言ってるんだよ?
何でそこで嬉しそうな顔して答えるかな?
……なんて思ったりもしたけど、なんだか毒気が抜かれてそれ以上何か言う気にはなれなかった。
「んじゃクド公、電気消すよ」
「はいなのですっ」
電気のスイッチを切り、暗くなった室内をいそいそとベッドに向かう。ベッドに上がると、先にベッドに入っていたクド公をぎゅっと抱き寄せた。
……私は、暗いところが嫌い。
暗闇を恐れるのは人間の本能だなんていうけど、私のそれはちょっと行きすぎなんだと分かってる。原因だってはっきりしてる。
お山の家にいた頃は、夜寝てたらいきなり文字通り叩き起こされて、暗い部屋の中、訳の分からないことに謝罪を叫ばされながら、あたりが明るくなるまで殴られ続けたこともあった。
そのせいだろう、暗い部屋で人の気配が動くのが怖くて仕方がなかった。前のルームメイトには随分迷惑をかけてしまった。消灯後トイレに起きだしたルームメイトの気配に怯えて取り乱して大騒ぎして。
けど、クド公がルームメイトになってからはそういうことは無かった。クド公は人間だけど、何ていうかいい意味で人間っぽくなくてわんこっぽくて、暗い部屋は怖いけど、そこで動くクド公の気配は怖くなかった。それどころか、こうやってクド公を抱いて寝ると暗いのも怖くなくて、むしろ安心して眠ることができた。
『一人寝は寂しいからときどき一緒に寝たい』そう最初に言ってきたのはクド公の方だったけど、それは私にとっても嬉しい提案だった。本音を言うとときどきと言わず毎晩一緒に寝てもいいんだけど、そんなこと言ってやらない。だってなんか悔しいし。だからこうやって、たまに抱き枕の刑と言ってクド公を抱いて寝るようにしていた。
クド公のちっちゃい体を後ろからぎゅっと抱き締める。あったかくて、やわらかくて、ふわふわわふわふしてて。なんだかすごく安心する。
「んー、クド公いい子いい子」
「わふー」
頭を撫でると、気持ち良さそうに頭をすり寄せて来るクド公。 クド公の髪はさらさらで癖がなくて、逆にこっちが癖になりそうなぐらい手触りが良かった。と言うよりもう癖になってるのかも。犬の毛並みの良さを競うコンテストなんてものがあるらしいけど、きっとクド公より毛並みのいい犬なんていないと思う。
「三枝さん、いい匂いがしますー」
「あっ、こら、く、くすぐったいってばっ」
くるりと身を半回転させ、私と向かい合う形になったクド公がふんふんと小さい鼻をひくつかせながら、鼻っ面をすり寄せてくる。なんていうかもうほんとわんこだ。
「それに、とっても温かいのですー」
「ん、クド公もあったかいよー」
私の背に腕をまわし、ぎゅっとしがみついて来るクド公。クド公の頭に置いた手が無意識のうちに髪を梳いていた。あー、なんかほんとにクド公の頭を撫でるの癖になってるのかも。でもいいかークド公も嫌がってないみたいだし。そんなことを思いながら、私は穏やかな気分で眠りに落ちていった。
「来ヶ谷さん、何をこそこそ忍び込もうとしているんですか? もうすぐ消灯時間ですよ」
「無論、夜這いのためだ」
その部屋のドアの前、消灯時間も間近に迫り人の気配も減った女子寮廊下に二人の女子の姿があった。
「夜這いって……まったく、あなたという人は……」
呆れたように言って頭を押さえる風紀委員長、二木佳奈多。
「何なら佳奈多君も一緒によんぴ…… おっと失礼、ダブル夜這いと洒落込んでみないか? 葉留佳君とクドリャフカ君、どちらを選ぶかの優先権は佳奈多君にやろう」
悪びれることなく不穏当極まりないことを言ってのける来ヶ谷唯湖。
「しません、いりません。そもそもさせません。大人しく自分の部屋に戻って寝てください」
「ふむ、それは残念だ。仕方ない、声だけ聞いて我慢するとしよう」
ばっさりと切り捨てる佳奈多に、さほど気にした風もなく言ってのけ、ドアに耳を当てて中の様子を窺う来ヶ谷。
「来ヶ谷さん、はしたないですよ」
「まあいいではないか、ほら、キミもやってみたまえ。なかなか面白いものが聞こえるぞ」
「私はけっこうです」
「まあまあそう言うな。これはキミにとっても聞いておくべきものだと思うぞ」
「何ですか、もう……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、来ヶ谷にならってドアに耳を当てる。
「……ん、ふっ、クド公ぉ……」
「……わふっ、さいぐささぁんっ……」
部屋の中からドア越しに聞こえてきた、妙に艶っぽい二つの寝言に顔を真っ赤にして硬直する佳奈多。その耳元に口を寄せ、来ヶ谷は妖しく囁きかけるのであった。
「佳奈多君……キミも本能に身を委ねてみないか?」
ごくりと、佳奈多の喉が鳴った。